旅行記の著者「ジョン・マンデヴィル」
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「ジョン・マンデヴィル」の記事における「旅行記の著者「ジョン・マンデヴィル」」の解説
著者であるジョン・マンデヴィルの正体をフランドルの医師ジャン・ド・ブルゴーニュとする説があるが、ジャン・ド・ブルゴーニュの経歴は明らかになっていない。ジャン・ド・ブルゴーニュはエジプトで生活していた時期に旅行記の執筆を思い立ち、自分が訪れた経験がないエジプト以外の地域の記録については他者の記録を参考にし、ジョン・マンデヴィルという筆名で旅行記を刊行したと考えられている。1371年にパリで制作された最初期の『東方旅行記』の写本には、1365年に「リエージュの医学教授」ジャン・ド・ブルゴーニュが著した論文が収録されている。 ジャン・ド・ブルゴーニュと呼ばれる老人の臨終の場に立ち会ったリエージュの公証人のドウトレミューズは、彼の口からイングランドである伯爵を殺害したために国外に逃亡した過去と、ジャン・ド・マンデヴィルという本名を聞かされた。マンデヴィルに関する記録の多くはジャン・ドウトレミューズの記述に依拠しており、この点からドウトレミューズは自身が著した旅行記をジャン・ド・ブルゴーニュによるものと見せかけるために「ジョン・マンデヴィル」という架空の人物を生み出したとする指摘もある。ジャーナリストのジャイルズ・ミルトンは13世紀末から14世紀初頭にかけて多く存在していた「ジョン・マンデヴィル」の中で、エドワード2世に仕えたエセックスの貴族ジョン・マンデヴィルが旅行記の著者だと推定している。 1403年に没したリエージュ近郊のトンゲレンの司祭・年代記作家のラデュルフス・ド・リヴォはマンデヴィルについて彼が著名な医者であったこと、ギレルマン教会に埋葬されたこと、彼が3ヶ国語からなる旅行記を書き上げたことを記録しているリエージュのサン・ジャック教会のベネディクト会士コルネリウス・ザントフリートは、マンデヴィルが医術に長けた髭面の老人と記している。1625年にイギリスのサミュエル・パーチャスによって発行された『パーチャスの巡礼者伝』には、「ジョン・マンデヴィルによる」堕落した教会の批判が収録され、多くの著述家・好古家がパーチャスのこの記録を引用した。
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