新広西派の創始とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 新広西派の創始の意味・解説 

新広西派の創始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:50 UTC 版)

李宗仁」の記事における「新広西派の創始」の解説

広西省桂林府臨桂県郷村の塾教師培英の次男生まれる。光緒34年1908年)、広西陸軍小学堂に入学する宣統2年1910年)、中国同盟会加入したまた、この時に黄紹竑同学になっている1913年秋に卒業して南寧将校講習所下級軍官に任ぜられた。以後陸栄廷指導者とする旧広西派旧桂系)で軍歴重ねていく。 1920年陸栄廷が粤戦争で粤軍(広東軍)に敗北してからは、広西省内は混乱して様々な軍人たち自立するうになる。この混戦の中で1922年李宗仁広西自治軍第2路総司令自称し黄紹竑らの協力得た1923年広州軍政府孫文孫中山)に与して中国国民党加入し、「広西桂軍」を組織した1924年旧広西派陸栄廷沈鴻英相手に、李宗仁三つ巴戦い開始する。まず、3勢力最強陸栄廷対抗するため、李宗仁沈鴻英との間で事実上連合結成する4月沈鴻英桂林進軍してきた陸栄廷包囲・攻撃した。6月李宗仁らは、手薄になった陸栄廷本拠地南寧占領した。このとき、彼は定聯軍を組織してその総指揮となる。9月沈鴻英陸栄廷広西から駆逐し10月にこれを下野追い込んだ11月李宗仁孫文から広西全省綏靖督弁公署督弁に任命され黄紹竑は会弁、白崇禧参謀長任じられた。白崇禧黄紹竑とともに新広西派新桂系)の主要な指導者一人となり、一般には、その3人の中でも李宗仁最高指導者みなされる1925年初から、李宗仁沈鴻英との間で戦闘開始される4月李宗仁らは桂林占領し沈鴻英軍をほぼ再起不能追い込んだ。さらに、広西侵攻企てた雲南省唐継尭軍を撃退するなどして、同年中に李宗仁らはついに広西省統一した。これより、新広西派による広西統治開始される

※この「新広西派の創始」の解説は、「李宗仁」の解説の一部です。
「新広西派の創始」を含む「李宗仁」の記事については、「李宗仁」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「新広西派の創始」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新広西派の創始」の関連用語

1
8% |||||

新広西派の創始のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新広西派の創始のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの李宗仁 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS