新広西派での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/25 09:48 UTC 版)
まもなく廖磊は新広西派の第4集団軍の一翼を担うことになり、再開された北伐でも北京攻略に貢献する軍功をあげている。北伐完了後、廖は第36軍を率いて唐山に駐屯し、1929年(民国18年)1月、軍縮に伴い第36軍は第53師に縮小されたが引き続き廖が師長を務めた。1929年(民国18年)3月、蒋桂戦争が勃発すると、廖磊は蒋介石からの離反の唆しにもかかわらず新広西派支持を堅持する。廖は北方に留まっていた白崇禧を広西に脱出させるなど支援した後、自身は蒋への抗議の意味も込めて師長を辞任、下野した。 1930年、廖は白の要請に応じて広西省へ戻り、護党救国軍(新広西派の軍)に前敵総指揮部参謀長として起用された。3月、護党救国軍が第1方面軍に改組されると、廖は同方面軍第7軍副軍長兼参謀長となり、中原大戦で蒋介石軍と交戦している。中原大戦自体は新広西派など反蒋派の敗北に終わったものの、廖らは広西へ侵攻してきた盧漢率いる雲南軍(親蒋派であった)の撃退には成功した。 1931年(民国20年)1月、廖磊は第7軍軍長に昇進し、柳州に駐屯している。新広西派による広西統治においては、廖は軍事的統制の面で力を揮った。例えば1929年末からの中国共産党(紅軍)蜂起や1933年(民国22年)のヤオ族(瑶族)蜂起は、廖磊がその鎮圧を主導している。しかし1934年(民国23年)からの紅軍の長征に際しては、廖はこれを迎撃したものの各地で反撃に遭い、損害も大きかった。
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