教育、司法制度の革新
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重賢の改革は財政だけに留まらず、宝暦4年(1754年)には熊本城内に藩校時習館を設立し、許可が得られれば身分に関係なく入校が出来た。江戸の湯島聖堂、岡山の閑谷学校など、将軍や藩主のための学問所、藩校はあったが、家臣や領民、藩外へも広く門戸を開いた日本初めての学校とされる。今で言う奨学金制度も制定するなど、人材育成にも注力した。これらは急激な改革による不満対策と、文武両道の武士教育の意味がある。また、日本最初の公立の藩の医学校再春館を宝暦6年(1756年)に飽田郡宮寺村(現在の二本木)に創設、翌年開校した。その付属の薬草園も現在の薬園町に作った。 「藩校時習館」および「再春館 (学校)」も参照 また『刑法叢書』を採用した。それまで死刑か追放刑という刑罰内容だったものを変更し、追放刑を笞刑(むちで打つ)と徒刑(懲役)に減刑した。罪人の二の腕に入れ墨を入れていたのを廃止し、代わりに眉を剃らせ、罪人の社会復帰を容易にした。これも急激な改革に対する犯罪増加や不満対策である。この『刑法叢書』は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本から多くの人材が司法畑に採用された。
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