教導航空軍の編成
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1944年(昭和19年)、連合軍との戦況は悪化し、本土が直接戦場となりつつあった。陸軍中央は航空関係の教育機関を戦力とすることを検討し、諸学校のうち基本教育ではなく錬成訓練が主な任務の「実施学校」と呼ばれる飛行学校5校と1分校、および航空整備学校1校を軍隊化することが決定した。同年6月、下志津教導飛行師団等臨時編成要領(軍令陸乙第29号)により下志津、明野、浜松、鉾田、白城子(宇都宮に移転)の各陸軍飛行学校をそれぞれ下志津教導飛行師団、明野教導飛行師団、浜松教導飛行師団、鉾田教導飛行師団、宇都宮教導飛行師団、明野陸軍飛行学校分校を常陸教導飛行師団、立川陸軍航空整備学校を立川教導航空整備師団、浜松陸軍飛行学校の一部を三方原教導飛行団に改編した。これら教導飛行師団等は前身となった学校と同様に航空総監に隷属したが、作戦行動の指揮統率は航空総監の本務から外れるものであった。 同年8月8日、軍令陸甲第108号により臨時動員という形式で教導航空軍司令部が編成された。その軍司令官は航空総監(菅原道大中将)、参謀長は航空総監部総務部長、参謀副長は同教育部長、参謀5名は同教育部員がそれぞれ兼務するものであり、教導航空軍司令部の実態は航空総監部と同じであった。前述の各教導飛行師団、および教導航空整備師団、教導飛行団は教導航空軍司令官(航空総監)が指揮することとなった。しかし本土における航空作戦に専任する作戦航空軍司令部の創設が必要となり、同年12月26日に教導航空軍および同軍司令部(実態は航空総監部)は5か月経たずに編成を解かれ、軍令陸甲第165号により第6航空軍が新設された。
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