教光院事件とは? わかりやすく解説

教光院事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 02:33 UTC 版)

本庄茂平次」の記事における「教光院事件」の解説

水野忠邦は、大御所時代権勢振るった11代将徳川家斉寵臣たちを幕閣から排除したが、中でも天保の三侫人」と呼ばれた者の1人水野忠篤葬るために鳥居策動した水野忠篤は、追放された後、水野忠邦やり方恨み思って武州大井村に住む教光院の修験者・了善に忠邦を呪詛する祈祷をさせたという噂が流れた本庄当時江戸町奉行になっていた鳥居命じられて、教光院に潜入した水野忠篤の元家来金八名乗り、了善に忠邦の呪詛依頼するが、断わられると何でもいいからお祈りをあげてくれと頼み初穂金を差し出して受け取りもらった。そして教光院に泊りこみ、了善の弟子になって水行などを行なったが、そこで帳面信者からの手紙などを調べた際に、内藤外記嫁いでいる水野忠篤の娘が了善に祈祷依頼した書翰があり、祈祷依頼帳面から忠篤と家来の名が見つかった本庄がこれらを証拠として鳥居提出した後、天保13年6月18日南町奉行所捕り方が教光院にいた了善を捕え、水野忠邦呪詛したとして自白迫った本庄取り調べの際に了善に名乗った金八」として了善と突き合わせ吟味行ない、教光院に忠邦の呪詛依頼した供述した。 「水野忠篤処罰受けたのは水野忠邦間違いであるから、忠邦の勢いをくじき、忠篤が再勤となるように祈祷してくれと、忠篤の娘より頼まれて、やむを得ず承諾した呪詛方法など知らないので、忠篤の身辺厄除け祈祷をしただけ」というのが了善の供述であった。しかし水野老中地位障害出てるようにとの依頼受けて承知したのは、やはり忠邦呪詛の筋に相当するとして責めたところ、了善は答え窮して恐れいった。 吟味結果、了善は遠島水野忠篤信州諏訪高島諏訪因幡守にお預けとなり、翌年病死した。事件の後本庄表向き湯治から帰ったことにしてそのまま鳥居仕えていたが、この件で鳥居からはわずかばかり報酬しか渡されなかった。

※この「教光院事件」の解説は、「本庄茂平次」の解説の一部です。
「教光院事件」を含む「本庄茂平次」の記事については、「本庄茂平次」の概要を参照ください。

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