放棄と隔離(1650年–1669年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 01:22 UTC 版)
「デンマーク領インド」の記事における「放棄と隔離(1650年–1669年)」の解説
投資に対する収益の少なさから、主要株主からは会社への解散圧力がたびたび現れていた。生前のクリスチャン4世は、これらの動きに抵抗していた。1648年にクリスチャン4世が亡くなると、その2年後に彼の息子のフレデリク3世は会社を廃止した。 会社は廃止されたが、植民地は王室の所有物であり、本国の政変に気づかなかった守備隊によって保持されていた。離職や病気によってデンマーク=ノルウェー人の数が減少したため、現地のポルトガル人やポルトガル系インド人が砦を守るために雇われた。最終的に1655年までに、エスキルド・アンダーソン・コングスバッケ(Eskild Anderson Kongsbakke)がリーダーとなり、トランケバルに残った唯一のデンマーク人となった。 非識字の庶民であるコングスバッケは祖国に忠実であり、ベンガル湾で船を襲撃しつつ、ナーヤカによる長期間の包囲に対してはデンマーク=ノルウェーの旗の下で砦を防衛し続けた。彼は商品の販売益を使って防御施設を修復して、町の周りに防壁を建設し、ナーヤカとは和解交渉を行った ヨーロッパの他の国の船を経由してデンマークに送られたコングスバッケの報告は、ついに本国政府を動かした。フリゲート艦フェロー(Færø) は、シヴァルト・アデラー(Sivardt Adelaer)艦長の指揮下にインドに派遣され、1669年5月に到着して植民地のリーダーとしての任命を公式に確認した。19年間の孤立無援は終わった 。
※この「放棄と隔離(1650年–1669年)」の解説は、「デンマーク領インド」の解説の一部です。
「放棄と隔離(1650年–1669年)」を含む「デンマーク領インド」の記事については、「デンマーク領インド」の概要を参照ください。
- 放棄と隔離のページへのリンク