指揮者、教授として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 00:16 UTC 版)
「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の記事における「指揮者、教授として」の解説
1849年、ベネットはバッハ協会の初代会長となった。彼の指示の下、協会は1854年4月6日にバッハのマタイ受難曲のイギリス初演を行った。1853年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者への招聘を辞退している。実のところ、彼はその誘いにかなり魅力を感じており、引き受けたいのは山々でありながらも、彼はイングランドに残ることを使命と考えていたのである。その招待は彼には遅すぎ、生徒の中に行き場のない者が出てしまったのである。彼は自分の生徒を失望させることを拒んだのだ。1855年にコスタはフィルハーモニック協会の常任指揮者を辞め、リヒャルト・ワーグナーが跡を継いだが、うまくいかずに1年でまた辞めてしまう。投票の結果、ベネットが常任指揮者の後継として選ばれた。1856年4月14日の彼の最初の演奏会では、旧友の妻であるクララ・シューマンをピアノ独奏に迎えてベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番を演奏した。これがクララの初めてのイギリス訪問であったが、夫は同行することができなかった。その頃、夫のロベルトは末期の精神疾患を患っており、ドイツのサナトリウムに収容されていたのだ。 1856年3月、ベネットはケンブリッジ大学の音楽科教授に任命されたが、王立音楽アカデミーとクイーンズ・カレッジでも教壇に立ち続けていた。彼は音楽科の学位授与制度を現代化した。viva voce試験を設け、博士号希望者には音楽の学士号取得を要求した。彼は10年間、教授職に留まったが、1866年に王立音楽アカデミーの学長となったのを機に後進に道を譲った。 1862年が終わろうとする頃、ベネットの妻が疼痛を伴う病で亡くなった。ベネットの伝記作家のW. B. スクワイヤー(Squire)はこう記している。「彼をよく知る者たちによると、彼がベネット夫人の死から立ち直ることはついに出来ず、それ以降友人らには彼の中で明らかな悲しみの変化が生じたように思われた。」
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