パクパ
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ドグン・チューギェン・パクパ(チベット文字:འགྲོ་མགོན་ཆོས་རྒྱལ་འཕགས་པ་; ワイリー方式:Gro mgon Chos rgyal 'Phags pa、1235年3月6日 - 1280年11月22日)は、チベット仏教サキャ派(赤帽派)の座主。元朝の初代皇帝のクビライに招請された帝師。モンゴル語化したパスパの名前で表記されることも多く[1]、漢語史料では八思巴、発思八、抜合思巴とも表記される[2]。本名はロドゥ・ギェンツェン(bLo gros rgyal mtshan)であり、幼年期に利発さを示したため、「聖者」を意味するパクパの名前で呼ばれた[2]。
注釈
- ^ 金輪は転輪聖王の最高位である金輪王を象徴する。
- ^ ポンチェンとは、軍事・行政の監督官である。サキャのポンチェンは帝師の下に置かれ、アムド、カムなどの他地域に置かれたポンチェンよりも強い権限を有していた。(ロラン・デエ『チベット史』(今枝由郎訳, 春秋社, 2005年10月)、97頁)
出典
- ^ a b c d e 佐藤「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻、296-297頁
- ^ a b c d e f 藤枝「パスパ」『アジア歴史事典』7巻、372頁
- ^ 岡田『モンゴル帝国から大清帝国へ』、129頁
- ^ デイヴィッド・スネルグローヴ、ヒュー・リチャードソン『チベット文化史』(奥山直司訳, 春秋社, 2011年3月)、194頁
- ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、38頁
- ^ 北川誠一、杉山正明『大モンゴルの時代』(世界の歴史9, 中央公論社, 1997年8月)198頁
- ^ a b 山口『チベット』下、72頁
- ^ a b 藤枝「パスパ文字」『アジア歴史事典』7巻、372-373頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、39-40頁
- ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、137頁
- ^ a b 石濱裕美子「チベット仏教世界の形成と展開」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)、252-253頁
- ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、124-125頁
- ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、128-129頁
- ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、125頁
- ^ a b ロラン・デエ『チベット史』(今枝由郎訳, 春秋社, 2005年10月)、100頁
- ^ 山口『チベット』下、74頁
- ^ 三友健容、『パスパのアビダルマ理解』、印度學佛教學研究 57(2)、2009年3月、p.1053
- ^ デイヴィッド・スネルグローヴ、ヒュー・リチャードソン『チベット文化史』(奥山直司訳, 春秋社, 2011年3月)、221頁
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