戦後の待遇とナイルの海戦
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「1798年7月15日の海戦」の記事における「戦後の待遇とナイルの海戦」の解説
短い戦闘の間にサンタドロテアは大きな損害を受け、371人の乗員のうち、少なくとも20人が戦死して32人が負傷していた。対照的にライオンでは負傷が2人切りで、水兵が1人片脚を失い、ミジップマン(英語版)が肩を撃たれたにとどまった 。ライオンの艤装はひどく破壊されていたが、構造の上ではこの損傷はまったく問題なかった。拿捕したスペイン艦の安全を期するため、ディクソンは翌日、広範囲にわたるサンタドロテアの修理を行い、しかる後にカディス沖のジャーヴィスのもとに届けさせた。サンタドロテアはイギリス海軍に購入され、36門艦のイギリス艦サンタドロテアとして数年間就役した。サンタドロテアと艦上の物資の売却によって得られた賞金は、1800年10月にライオンの乗員たちに支給された。それからほぼ50年後、海軍本部は「1798年7月15日」の従軍記念略章を以てこの海戦の関係者を表彰した。この略章はナヴァル・ジェネラル・ゴールド・メダル(英語版)と共に、1847年当時に存命であったすべての関係者を対象に授与された。 ライオンはそれから2か月間地中海西部にとどまり、最終的にはニザ侯爵(英語版)トマス・サビエ・テレス・デ・カストロ・ダ・ガマ指揮下の4隻のポルトガル戦列艦の戦隊に加わった。9月になって、ニザの戦隊は、東の方に航行したフランス軍の探索のためにネルソンと合流するように命令を受けた。しかしマルタの北を航行中に、この戦隊はサー・ジェームズ・ソーマレズ(英語版)艦長率いる、ひどく損傷を受けた護送船団に出くわした。この船団は7隻のイギリスの戦列艦と、6隻の拿捕されたフランス艦とで、すべてナイルの海戦から帰還するところだった。この海戦は、その年の8月1日に行われた、アブキール湾沖でのネルソンの作戦の締めくくりとして功を奏していた。イギリスとポルトガルの連合戦隊は、10月のアレクサンドリアへ到着まで航海を続け、その地で封鎖を続けているサミュエル・フッドの戦隊に一時合流した後、12月にマルタに戻って、マルタ沖で新たに編成された戦隊に加わった。ライオンはポルトガル戦隊を追って12月にマルタに戻った。その後1798年が終わるまで、スペイン海軍が地中海岸の港から出航することはなかった。
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