戦前及び大戦初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 03:21 UTC 版)
第二次世界大戦の時点でドイツ機甲部隊は、連合国の戦術および運用上のレベルより、もっとも非常に深化し、より柔軟な戦闘教義を開発していた。こうした戦闘教義は戦略レベルの位置になかったにもかかわらず、1940年、フランス侵攻戦でドイツ軍が集結させた機甲師団は、戦略的に連合軍の防衛線を切断し、巨大な効果をもたらすよう用いられた。 この戦闘教義の発展はハインツ・グデーリアンの著である「アハトゥンク・パンツァー」(邦題、戦車に注目せよ)の広汎な影響下に行われた。またドイツの戦車兵科は、歩兵や騎兵とは別個の「Panzertruppe(機甲部隊)」「Panzerwaffe(機甲兵科)」として形成され、こうした政治的理由などの要因からも発展は促進された。しかしながら、1940年まで「Panzertruppe」は強い影響力を持っていた歩兵部隊によって妨害を受けた。それは戦車製造が低い優先順位しか与えられなかったことからも示されている、開戦時の資材割当は第一が弾薬、火器、工作機械であり次が艦艇、航空機。戦車の優先度は3番目だった。またこの要因から、1936年から1939年にかけ、戦車は歩兵部隊と騎兵部隊の間で分割されていた。 グデーリアンは他の将官の助力を得、純粋な歩兵部隊や騎兵部隊とは別個の、機甲化された諸兵科連合部隊を設立した。戦車師団は単に戦車のみで編成されるのではなく他の兵科を合成していた。最も注目すべき点は、半装軌車輌に搭乗し、輸送中に小火器の射撃から防御されている機械化歩兵部隊、および戦車の車体に野砲を搭載した自走砲部隊である。こうして戦車師団は完成し、戦闘部隊として自立を果たすことができた。また、大量の対戦車銃を装備し、塹壕に籠もる歩兵部隊の強力な抵抗に対して、戦車が突破を達成する際には、味方歩兵の直接支援無しには高い代償が払わせられたが、この問題を克服することもできた。歩兵部隊は、戦車部隊の速度へ追従するには常に問題を抱えていたが、今や彼らは機甲部隊と共に行動することができた。しかしこの発展については、機械化歩兵部隊の装備に半装軌車輌が不足していたために、1941年まで妨げられた。 理論的な手法を介しての徹底した研究、兵棋演習及び訓練、またヒトラーの政治的な支援から、機甲部隊は自らのうちに、装甲化された部隊は戦場での鍵になる部隊であるとの確信を作り上げた。この観点は1940年以前に存在したが、しかし他の任務につく兵科と共有されることは無かった。この戦闘教義の重要な部分は、全戦車に無線機を装備することによる改善された通信網であった。またこの概念は、大多数の戦車が送受装置のレシーバーだけを持っていたことから、技術的な限界に苦しめられた。戦術と戦闘教義の運用の優勢、加えて適切な戦略の遂行により、1940年のドイツ軍はフランスにおける作戦で、装甲部隊、歩兵部隊、および砲兵部隊の量において優勢な敵軍を撃破した。電撃戦は十分な検討を経た戦闘教義となった。しかし1941年の東部戦線では当初劇的な成功を達成したものの、最終的に失敗を迎えた。
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