成績不振~現役引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:45 UTC 版)
初の大関角番となった翌9月場所は、体調が万全では無かったものの9勝6敗となんとか勝ち越して角番を脱出。その9月場所直後の9月27日、みづえと結婚披露宴を挙げた。結婚を機に復活をと行きたいところだったが、次の11月場所は3勝12敗と全盛期を知る者には信じられない無残な成績を残す。ちなみに大関での皆勤場所12敗は、1980年11月場所の増位山以来の当時のワーストタイ記録だった。 1986年1月場所は8勝7敗でギリギリ勝ち越したものの、翌3月場所は千秋楽に敗れて7勝8敗と皆勤負け越し。それ以降もケガや内臓の病気、糖尿病の発症により、勝ち越しても1ケタ勝ち星(8・9勝)に終わる苦しい土俵が続いていた。 1986年11月場所は10日目まで2敗を守り久々に優勝争いを演じるが、終盤5連敗を喫し結局は8勝7敗に終わる。1987年1月場所は10日目から6連敗で5勝10敗と負け越し。4度目の角番だった3月場所は8勝7敗と再度角番を脱するも、これが現役最後に勝ち越した場所となった。翌5月場所は12日目で4勝8敗と負け越しが決まり、さらにケガの悪化のため13日目から途中休場。自身5度目の大関角番となった翌7月場所は、初日に起利錦、2日目に益荒雄と良い所無く2連敗、翌3日目に現役引退を表明した。結局、新弟子当時「ワリバシ」とあだ名された軽量と、高校相撲時代に身についてしまった下手投げ主体の取り口が最後まで祟る格好となった。
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