弁天島と今切舞阪港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/02 08:35 UTC 版)
弁天島や舞阪港は遠江と呼ばれた頃から現在まで、文献を見る限りこれほど地形が変わったところも珍しい。古代から現在まで、東西を行き来する旅人の舞阪一帯の印象は、その時代ごとの景観の違いにより異なったと思う。 それだけに、この地に立ち、遠くの景観を見るにあたり、地形というものは常に変わるものであり、その変化に挫けず前に進もうという気概が生まれるような土地柄である。 現在、弁天島や舞阪一帯の発掘調査や海底遺跡の発見などから、弥生時代の生活道具等が見つかり、この地に於いて漁業生活を中心に人々が暮らしていたことが分かってきた。 舞阪の古社として岐佐(きさ)神社があるが、明応7年(1498年)の地震と津波により、社殿の一部が現在地に漂着した事により社殿を建てたとの事である。それ以前の岐佐神社が何処にあったかは現在も不明である。また、浜名湖の南部に今切が出現し、外海と繋がるようになったのもこの時である。 この天変地異により、弁天島や舞阪港の周辺は海に没したり、淡水湖であった浜名湖が海水と混じる汽水湖になったり、この地の住人は表現できない様な絶望的な驚きがあった事だと思う。 現在、舞阪港ではアサリやシラス漁等が営まれ、弁天島では観光的な活動が行われ、多少なりとも絶望感のあった時代とは異なっている。 この地には天変地異により地形が変わっても、逞しく進んでいこうとする力がみなぎっているようだ。弁天島や舞阪港を訪問し、地元の海産物を食し、不撓不屈の気力を付ける事が良いかもしれない。 〔周辺の観光施設〕・舞阪宿脇本陣・東海道松並木・弁天島海浜公園・渚園
※この「弁天島と今切舞阪港」の解説は、「浜名湖ロマン」の解説の一部です。
「弁天島と今切舞阪港」を含む「浜名湖ロマン」の記事については、「浜名湖ロマン」の概要を参照ください。
- 弁天島と今切舞阪港のページへのリンク