庶民院議員に当選し、穀物法廃止を実現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 16:10 UTC 版)
「リチャード・コブデン」の記事における「庶民院議員に当選し、穀物法廃止を実現」の解説
1841年6月の総選挙(英語版)でストックポート選挙区(英語版)から立候補して当選を果たし、急進派(英語版)の庶民院議員となる。 この総選挙は保守党の勝利に終わり、保守党政権の第二次ピール内閣が発足した。保守党は地主の議員が多く、穀物法廃止に否定的と思われていたが、ピール首相はコブデンら穀物法廃止を求める世論に影響されて穀物法廃止に傾いていた。コブデンらはピールに圧力をかけるべく反穀物法運動の一層の盛り上げに努めた。 コブデンは穀物法廃止の機運を資本家だけでなく労働者層にも広げるべく、議会において「食料価格と賃金との連動性」についてこれまでの主張を修正する議論を展開するようになった。たとえば議員になった直後には「パンの価格が下がっても必ずしも賃金が下がるとは限らない。イギリスが穀物法を廃止し、その結果他の農業国から大量の穀物がイギリスに輸出されれば、それとの交換でイギリス産の金物類・衣料を購入するようになり、イギリスは輸出市場は拡大するだろう。結果そのような製品の生産が増大し、その産業に従事する労働者の賃金が減ることはない」と演説している。また農業労働者の不安も鎮めるため、1844年には「穀物の自由化が地主の耕地の生産性も増大させる。このことは農業労働力を減少させるかもしれないが、その結果として都市の労働市場は拡大し、彼らの雇用も増大し、一般的にいって彼らの賃金は増大するであろう」と演説した。 コブデンが労働者・農業労働者の不安の払拭に努めた結果、反穀物法同盟は分裂することなく、コブデンを中心に固い結束を維持した。 コブデンらのお膳立てした世論とアイルランド飢饉を背景にピール首相は穀物法廃止を最終的に決意し、1846年5月に穀物法を廃止して穀物自由貿易を達成した(ただし保守党が保護貿易派と自由貿易派ピール派に分裂したため政権を失うことになった)。 コブデンはこの報道を聞いた際に「万歳、万歳。穀物法廃止法案は可決された。そして今や私の任務は完了した」と書いている。
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