平松倍千との取り違えと再発見とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 平松倍千との取り違えと再発見の意味・解説 

平松倍千との取り違えと再発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/25 18:50 UTC 版)

村井古道」の記事における「平松倍千との取り違えと再発見」の解説

古道その作品多くを「無名園古道」と号して残したが、近年までその正体を、古道同じく来山の門弟であった平松倍千と取り違えられていた。明治期の『大和人物志』(佐々醒雪水木要太郎等著、奈良県庁発行1909年(明治42年))などでも平松古道として項目が建てられ、それを引用した辞書などでも平松古道として記載されていたという。 取り違え原因としては、金沢昇平1890年(明治23年)に刊行した平城坊目遺考』において、無名園古道著作率川御子本縁』からの引用を「平松甚平記録曰」と記載したこと、また1889年(明治22年)頃に平松家所蔵されていた無名園古道著作奈良名所記』が、平松家祖先著作として受け継がれていたことなどに因るようである。 しかしながら大和人物志平松倍千の墓碑銘では、倍千の没年元文3年(1738年)となっているが、宝暦元年(1751年)に刊行された『俳諧家譜』の「追加大津南部点者譜」等での無名園古道没年寛延2年(1749年)となっており、11年もの開きがある。 『俳諧家譜』の「追加大津南部点者譜」では、無名園古道村井氏であると記されている。 平松倍千の墓碑銘では、倍千は「平城下三条坊之人也」と記されているが、『奈良坊目拙解』の「西城戸町」「率川阿波神社旧跡」の項では、無名園古道在所について、西城戸町20年余り居住する記されている。 『俳諧母里』『木葉こま』などに所収される俳諧に、「倍千」と「古道」が名を連ねるものが散見される。 などの矛盾があるため、山本賢三、金井寅之助などの研究者により疑義示されてきた。 1949年(昭和24年)9月金井寅之助が奈良市林小路町霊巌院の無縁墓中に古岸道静居士」と記され墓石及び関連する回向帖を発見し無名園古道村井氏であり村井道弘息子であることなどが再発見された。

※この「平松倍千との取り違えと再発見」の解説は、「村井古道」の解説の一部です。
「平松倍千との取り違えと再発見」を含む「村井古道」の記事については、「村井古道」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「平松倍千との取り違えと再発見」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平松倍千との取り違えと再発見」の関連用語

1
村井古道 百科事典
10% |||||

平松倍千との取り違えと再発見のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平松倍千との取り違えと再発見のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの村井古道 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS