平松倍千との取り違えと再発見
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「村井古道」の記事における「平松倍千との取り違えと再発見」の解説
古道はその作品の多くを「無名園古道」と号して残したが、近年までその正体を、古道と同じく来山の門弟であった、平松倍千と取り違えられていた。明治期の『大和人物志』(佐々醒雪、水木要太郎等著、奈良県庁発行。1909年(明治42年))などでも平松古道として項目が建てられ、それを引用した辞書などでも平松古道として記載されていたという。 取り違えの原因としては、金沢昇平が1890年(明治23年)に刊行した『平城坊目遺考』において、無名園古道の著作『率川御子守本縁』からの引用を「平松甚平記録曰」と記載したこと、また1889年(明治22年)頃に平松家に所蔵されていた無名園古道の著作『奈良名所記』が、平松家祖先の著作として受け継がれていたことなどに因るようである。 しかしながら、 大和人物志や平松倍千の墓碑銘では、倍千の没年は元文3年(1738年)となっているが、宝暦元年(1751年)に刊行された『俳諧家譜』の「追加大津南部点者譜」等での無名園古道の没年は寛延2年(1749年)となっており、11年もの開きがある。 『俳諧家譜』の「追加大津南部点者譜」では、無名園古道は村井氏であると記されている。 平松倍千の墓碑銘では、倍千は「平城下三条坊之人也」と記されているが、『奈良坊目拙解』の「西城戸町」「率川阿波神社旧跡」の項では、無名園古道の在所について、西城戸町に20年余り居住すると記されている。 『俳諧葉久母里』『木葉こま』などに所収される俳諧に、「倍千」と「古道」が名を連ねるものが散見される。 などの矛盾があるため、山本賢三、金井寅之助などの研究者により疑義が示されてきた。 1949年(昭和24年)9月、金井寅之助が奈良市林小路町の霊巌院の無縁墓中に「古岸道静居士」と記された墓石及び関連する回向帖を発見し、無名園古道が村井氏であり村井道弘の息子であることなどが再発見された。
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