幕府申次衆・奉公衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:39 UTC 版)
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河国守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を盛定が務めていた。その縁で盛定の娘で宗瑞の姉(または妹)にあたる北川殿が義忠と結婚したと考えられる。宗瑞が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格において遜色ないため、近年では正室であったと見られている。文明5年(1473年)に北川殿は龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。 なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江国の今川氏の所領没収問題を巡って、貞親の実弟である伊勢貞藤が所領の没収と御料所化推進の中心的存在であり、この処分に反発する今川義忠・伊勢盛定の対立構図が生まれていることが注目される。また、貞藤は細川勝元と対立して応仁の乱では西軍に属している。かつては、出自の有力説の1つに貞藤の子とする説(後述)があったが、これらの事実とその後の宗瑞の経歴を考慮すると、この説が成立しがたいことになる。 宗瑞は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 - 1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている。 「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる。文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命された。長享元年(1487年)奉公衆となる。 京で幕府に出仕している間、建仁寺と大徳寺で禅を学んだ。
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