布教と貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:42 UTC 版)
商品貿易とともに日本に入ってきたのがキリスト教であり、ポルトガル商人とイエズス会宣教師は東アジアに進出を始めた当初から協力関係にあった。ザビエルは薩摩国に上陸してから、中国の泉州と日本の堺でのポルトガル商館の建設や、イエズス会が商館の関税を会の財源にすることをマラッカの長官に提案している。ザビエルは、日本で需要がある商品のリストも作った。 マカオ当局とイエズス会の間では、毎年50ピコの生糸をイエズス会の取り分とする契約が結ばれた。イエズス会はプロクラドールという貿易や財務担当の役職を任命して、南蛮貿易から財源を調達するようになり、禁教後もこの関係は続いた。イエズス会の提唱でマカオの行政執行部が発足して、ポルトガル領インド政府はマカオを集落からシダーデ(市)に昇格させて行政単位として認めた。こうしてイエズス会はマカオの地域社会の整備に重要な役割を果たした。長崎のプロクラドールは、岬に建設された教会内のカーザに貿易品を貯蔵して取り引きを行ったので、教会がポルトガル商館のように機能した。かつてのザビエルの提案はそのままでは実現しなかったが、プロクラドールの形で実現した。プロクラドールが貿易を行う点は「躓きの石」として批判も受け、禁止された時期もあった。イエズス会はマカオの商人とカピタン・モールの間をとりもつ役割を果たし、簡易裁判所のような機能も果たした。創設された聖パウロ学院には金庫が設置されて、日本との貿易や関税で得た貨幣を保管した。聖パウロ学院は日本布教のために日本人司祭の養成を目的としていた。
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