島の周辺の遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/16 13:11 UTC 版)
「エレファンティネ島」の記事における「島の周辺の遺跡」の解説
初期の王朝の頃から、エレファンティネ島は「ノマルケス」(νομάρχης、あるいは、ヘリー・テプ・アー)という地方長官が支配することになっており、古王国(第6王朝)から中王国(第12王朝)までの時代の地方長官の墓が、島の東側の対岸に面した土手の斜面に作られている。この墓所は「クッベテル・ハワー」(Qubbet el-Hawa)と呼ばれ、発掘調査がされている。 ノマルケスの墓所は、洞窟内にある地下墳墓である。第6王朝のサブニとメクの二重墓のように、柱や支柱で支えられた非常に広い部屋もある。第12王朝のサレンプト1世の墓も広く、ベニー・ハサン村にある、彼が代理人を務めた王たちの墓に劣らないくらいである。 なお、墓には番号が付されており、Sarenpout Ier は no 36、Pepynakht (Hekayib) は no 35、Herkhouf, Khunes, Sarenpout II は no 31、Sabni は no 25、 Mekhou は no 26 である。ナイル川の土手からクッベテル・ハワーに向かって、浮かし彫で飾られた参道が作られている。夜間はアスワンの町から見えるように参道が照明で照らされる。 クッベテル・ハワーの西、ナイル川から2キロメートル行った小高くなった場所に、聖シメオン修道院 (Deir Amba Samaan) がある。この修道院はエジプトがキリスト教化された時代の重要な遺跡の一つである。修道院は、高さ6、7メートルの壁で囲まれており、要塞化されている。壁は下の方が石でできていて上にレンガが積まれている。この修道院は紀元8世紀にに建てられたエジプトで最も大きい修道院の一つである。壁の内側に入ると、高さの異なる3段のテラス状の敷地がある。最下段のテラスには3つのネフを有する教会が建っている。教会の建物は堂宇の他は修道士が寝泊まりする部屋になっている。他のテラスには、料理をしたり買い物をしたりするための施設があり、屋台やオリーブを絞る施設もある。修道院は紀元12世紀には遺棄されたものとみられる。
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