山口県政へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 15:07 UTC 版)
明治9年に先収会社が解散した後、井上や木戸は農民たちの不平運動を抑えるために吉富に対して山口へ帰るように要望する。この時不平士族を集めた前原一誠による萩の乱がおこる。この時期には全国的にも佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、西南戦争や自由民権運動が起こり、薩長藩閥体制への挑戦が連続していた。長州閥の政治家達はお膝元山口での不平農民や不平士族たち、自由民権運動を押さえ込むことを吉富に託したのである。 山口に帰った吉富は民権派の地主たちを説得して回る。説得に当たって吉富は自由民権運動を頭からは否定しないが、世の民権運動は野蛮民権でありしっかりした政府がない状態での民権は混乱を招くだけなのでしっかりした政府の元で民権を徐々に達成していこうと言う。世界の大勢を説きながら説得する吉富に地主たちは賛同していく。 明治12年(1879年)に始まった山口県議会で吉富は初代の県会議長に就任し、衆議院選挙に立候補するまで11年間県会議長を務める。地租引当米制度で巨利を得た井上らの不正を追及し続ける農民代表で県議になった町野周吉は県議2期目の明治17年(1884年)、井上・吉富らに罪を捏造されて逮捕、1年の禁固刑を受けて獄死する。 明治15年(1882年)、吉富は地方政党・鴻城立憲政党を立ち上げる。綱領は大隈重信の立憲改進党の綱領と似通った綱領を採用したが、それは自由民権論者を懐柔して取り込むためである。しかし吉富の本音は自由民権論を敵視し、井上らの長州藩閥体制下での緩やかな民権を求めるものであり、井上らの主導権を守りこそすれ脅かす意図はなかった。このため、山口県では自由民権運動は大きな動きになることはなかった。明治17年頃からは全国的に自由民権運動は衰えていく。これに伴って自由民権論者を懐柔し取り込むための鴻城立憲政党も役割を終え解体されていく。 吉富は鴻城立憲政党の機関紙として意図して準備した新聞を切り替え明治17年に「不偏不党、中正公明」をスローガンに掲げた防長新聞を創設する(昭和39年(1964年)創刊の防長新聞とは別物)。政府御用新聞と揶揄された東京日日新聞から派遣された保木利用が編集人になり「不偏不党、中正公明」をスローガンにしていても、実際にはその論調は薩長が主導する政府を擁護し、薩長政府に対抗する者を攻撃していた。吉富は防長新聞の社長を大正3年(1914年)まで29年以上にわたって続けている。
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