山之越古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 21:56 UTC 版)
山之越古墳(やまのこしこふん)は、壇場山古墳の北西にある方墳。名称は「小山古墳」とも。史跡「壇場山古墳 第一、二、三古墳」のうち「第三古墳」として、国の史跡に指定されている。 古墳は壇場山古墳の主軸線上、北西約150メートルの地に位置する。一辺約60メートルの方墳で、高さは約7メートル。方墳としては兵庫県下で最大規模であるが、現在までに墳丘北半の大部分が削られ、全体的にも荒廃が進んでいる。かつては段築があったと推定されるが、現在にその痕跡は認められていない。墳丘表面には葺石が葺かれたと見られ、また円筒埴輪の細片が検出されている。墳丘周囲には幅約17メートルの周濠が巡らされていた。 主体部の埋葬施設として組合せ式の長持形石棺が現在墳頂に露出するが、竪穴式石槨の痕跡が周囲に見当たらないことから、この石棺は墳丘に直葬されたと見られている。石棺の石材は壇場山古墳と同様に、加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト(竜山石)になる。長さは壇場山古墳石棺に比べて短く、様式からはやや後世のものとされる。石棺は1897年(明治30年)に開蓋されており、棺内には白色の川原石が敷かれた上に被葬者が北を頭位として伸展状態で安置され、さらに銅鏡(直径16.4センチメートルの獣帯鏡)・勾玉・管玉・刀剣等の副葬品があり、副葬品には朱が付着していたという。しかし現在までに勾玉・管玉類は散逸し、残る銅鏡・刀剣類も大きく破損している。他に棺外にも刀剣等の埋葬があったというが、詳らかではない。 この山之越古墳の築造時期は、壇場山古墳に次ぐ5世紀中頃と推定される。かつては壇場山古墳の陪塚と考えられ、「第三古墳」として国の史跡にも指定されたが、現在では壇場山古墳に次ぐ首長墓と推定されている。大規模な古墳ではあるが前方後円墳ではなく方墳が採用された点から、被葬者がヤマト王権の強い統制下に置かれた様子が指摘される。 墳頂の長持形石棺
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