就労先と丹後宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:33 UTC 版)
丹後杜氏の就労先には、主流とみられる地盤が3つあった。井上村・平村・上野村・久憎村などの出身者を中心とした伏見組がもっとも多く、他に鞍内村出身者を中心とした奥大和組、尾和村・袖志村出身者を中心とした口大和組で、いずれも奈良・伏見地方である。 江戸時代の出稼ぎ労働には、「口入屋」や「宿」等と呼ばれた世話役の職業があり、労働者の雇用に独占的な権利を持っていた。宿の組合にあたる「宿仲間」が納める冥加金を目的に、幕府が保護していた権利である。酒造りに参じた出稼ぎ労働者は、こうした供給宿に一度足を止めてから、各々の酒蔵に行き着いた。宿で就職する酒蔵が見つからなかった者は、近郊の農家で農耕に従事したり、町芝居の端役に雇われ舞台に立つこともあった。 こうした宿は全国にあったとみられるが、伏見には1778年(安永7年)の時点で新町十二丁目の「丹後屋源四郎」や上坂橋町「丹後屋茂左衛門」などの6軒が、丹後方面から来る者が多かったことにより「丹後宿仲間」とも呼ばれた。宿は酒蔵に対しては労働者の供給源であると同時に、出稼ぎ者の身元引受人でもあり、賃金など雇用条件の交渉も宿仲間が担った。その権力は絶大で、宿仲間の利益を維持するために結託して極端な取締りや労働強化を図った例もあった。 宿仲間の権勢は明治維新後もしばらく続いたが、明治期の諸制度の変革とともに酒蔵は宿を経由せず直接労働者を雇い入れることが可能となり、やがて消滅した。
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