小ガイバ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 13:30 UTC 版)
「ムハンマド・ムンタザル」の記事における「小ガイバ」の解説
小ガイバ(ガイバトゥル・スグラー)にあっては、隠れイマームは、4人の代理を通じて、信徒らとのつながりを維持していたとされる。代理が隠れイマームの意志を代弁し、隠れイマームと信徒との連絡役としての役割を果たした。 信徒らは何らかの問題が起こると、それを代理に書き送っていた。そして代理は判断を下して、署名封印をなして自らによるものであることを証明し、関係者へ返送した。また、代理はザカート(喜捨)とフムス(宗教税)を徴収し、これを執行した。シーア派にとって、代理を通じて隠れイマームに伺いを立てるというあり方は、とりたてて目新しいものではなかった。すでに10代、11代の両イマームがアッバース朝に幽閉されていたため、直接に会うことが稀であったからである。 4人の代理は以下の通りである。 ウスマーン・イブン・サイード・アル=アサディー アブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・ウスマーン アブルカースィム・フサイン・イブン・ルーフ・アン=ナウバフティー アブルハサン・アリー・イブン・ムハンマド・アッ=サマッリー 941年、第4代の代理を通じてムハンマド・ムンタザルの命令が発行された。まもなく代理は没し、代理と小ガイバの時代は終わり、大ガイバの時代が始まる、との内容であった。 第4代の代理は6日後に没し、シーア派信徒らはマフディーの再臨を待ち続けることになる。まだ同年にはアリー・イブン・バーバワイヒ・クンミー、ムハンマド・イブン・ヤアクーブ・クライニー、カーフィーら、名のある多くのシーア派学者らが没している。 サーマッラーには、ムハンマド・ムンタザルのものとする墓廟が祖父と父のものと並んでおり、この墓廟は彼の家であったものとされている。イスラームの一部諸分派では、12人のイマームとその家族をはじめとする人物を、尊崇と敬虔、忠誠を表すために、ゆかりの地を保存する傾向があるが、ムハンマド・ムンタザルの墓廟もこれを示すものである。
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