対異教徒政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:39 UTC 版)
「ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ」の記事における「対異教徒政策」の解説
イスラムのアラビア制覇は征服によるものばかりではなく、他部族への宣教、懐柔によるところも大きい。イスラーム教徒はもちろん、多くの非ムスリムもムハンマドを当時としてはたいへん寛容な人物であったとしており、クルアーンの初期の啓示からもそのことが確認できる。 マッカとの交戦時代にはマディーナ憲章で互いの信仰が保証されていたにもかかわらず、アラブのユダヤ教徒との宗教的・政治的対立に悩まされ続けた。特にマディーナへの移住以降、外来の自身とムスリムたちのマディーナでの地位向上を巡って内外の勢力との対立を深め、ユダヤ教徒であるカイヌカー族(Banu Qaynuqa)などはマッカ側と内通するなどしていた。624年4月、ひとりのムスリムとカイヌカー族のある男性との殺人事件をきっかけに武力対立が顕在化し、ついに同族の砦を包囲陥落。かれらはメディナから追放された。これを機に、キブラの方向はエルサレムからマッカに変更された。 異教徒に対する態度についていえば、自発的な改宗を期待し、ズィンミーを払うことを条件に他教を認めて寛容であった。アラビア半島からユダヤ教徒が完全に追放されたのはウマル[要曖昧さ回避]の治世である。
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