寺院建立の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 22:50 UTC 版)
「圓龍寺 (豊橋市)」の記事における「寺院建立の経緯」の解説
神野金之助は1893年(明治26年)に干拓工事を開始し、1896年(明治29年)の完成を待たずして、説教所を廃止して、字ツノ割30に寺院の建立を決意し、大谷派本山執事の渥美契縁師等に寺院建立を相談した。 寺院の新設は規則上容易には許可が得られないので困窮したが、京都府の伏見に無住で廃寺同様なった圓龍寺という寺院があり、その寺籍を譲受け、その後に寺院移転の認可を得るのが都合が良いとの話となり、豊橋別院の輪番船見の惠眼師と協議した。 協議の結果、前の大谷派説教所を廃止し、更に土地の準備として新田内の字ツノ割に寺院の境域を二千坪と定め、惠眼師を圓龍寺の住職として圓龍寺を当方に移すが、そのお堂を初め一切の建物、並びに永代維持金等は神野金之助が寄附することと定めた。 1895年(明治28年)9月に京都伏見にある圓龍寺の移転を東本願寺並びに京都府と愛知県に出願し、1896年(明治29年)8月31日に移転の許可を受け、同時に管長に請いして一躍した別除音地の寺格を得ることになった。 その後寺院の建立を進めたが、巨大な木材の入手と運搬に年月がかかり、1904年(明治37年)4月15日 の完成となった。 なお、1906年(明治39年)10月に本願寺法主現如上人の特命により、宮部円成(1854年-1934年)が初代住職となる。 宮部円成は明治・大正を代表する大説教者である。
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