富山大空襲による焼失と仮閲覧所の開設
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「富山県立図書館」の記事における「富山大空襲による焼失と仮閲覧所の開設」の解説
1945年(昭和20年)2月20日に紀元二千六百年記念富山県立図書館長に就任した大田栄太郎は、東京における経験を活かして蔵書疎開の急務なることを説いた。この大田栄太郎館長の意向によって疎開作業は速やかに開始され、同年3月27日には早月加積の海恵寺に蔵書約3000冊を送達、以降7月30日まで9度に渡って県内各所に蔵書の疎開を進めた。1945年(昭和20年)8月2日、アメリカ軍第73爆撃団B-29計182機の編隊は、富山市市街地を猛爆して13.79平方キロメートル(4172700坪)を焼き尽くした(富山大空襲)。富山市は一望の焼け野原と化し、紀元二千六百年記念富山県立図書館館舎もまた全焼するに至った。それにもかかわらず、約6万5000冊の蔵書は疎開されていて無事であり、焼失した蔵書の多くは官報や県報、特許公報の類であった。1945年(昭和20年)8月12日からは富山県文教課内に図書館本部を設け、疎開せる図書を貸出文庫として閲覧に供することとなった。 一方、館舎は全く焼失してしまったので、1945年(昭和20年)8月22日からは富山県庁に紀元二千六百年記念富山県立図書館の本部を設置し、疎開図書の所在地であった早月加積と月岡に臨時事務所を設置して職員を分散させて業務を再開したが、同年12月26日からは富山県立神通中学校至誠堂内に仮事務所を開設し、同所において総員勤務することとなった。大田栄太郎は一日も早く閲覧設備を恢復させるため尽力し、1946年(昭和21年)2月2日から残存図書の目録カード作成に着手し、同年4月25日からは仮事務所設置場所である富山県立神通中学校至誠堂において仮閲覧所を開設することができた。 これによって至誠堂入口の廊下はその仮事務所として使用され、階段傍聴席は仮書庫として疎開図書2万冊を収容することとなった。仮閲覧所の定員は10名であり、一日に20名ほどの利用があったという。
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