寄宿舎移転問題
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1911年6月29日、山本良吉学生監は突如、旧寄宿舎を1912年7月に閉舎すると発表した。旧寄宿舎は閉鎖後に解体、その部材は近衛地区に開舎予定の「新寄宿舎」に転用するという。 舎生は完全に不意を突かれた。京大当局は以前から旧寄宿舎を解体・再構成して新寄宿舎を建築する計画を進めていたのだが、学生監は舎生に「新旧両舎並立し互に切磋する可なり」と矛盾する説明をしていたからだった。また移転の発表はほとんどの舎生が帰省している夏季休暇になされたため、舎生は寄宿舎移転が既成事実化した9月に旧寄宿舎に戻ってきてようやく事態に気が付いた[要ページ番号]。 寄宿舎の移転は三代目京大総長菊池大麓の意向だったといわれる。菊池は青少年の健全な育成に切磋琢磨が必要であることには同意していたが、少なくとも新寄宿舎は「切磋団体」である以前に、学生とくに優秀な学生の福利厚生施設にしたいと考えていた。寄宿舎が入舎選考権を持つことにも否定的だった。 12月15日、菊池総長は舎生と談話会を開き、概ね学生監と同じ説明をした。新旧寄宿舎の並立は財政上不可能である、新寄宿舎は特待生と旧寄宿舎舎生を優先的に入舎させる、ただし新寄宿舎は京大当局が直接監督し、(舎生が実質的な決定権を持つ)入舎選考も改める可能性がある、等々。しかし大方の舎生は、新寄宿舎が勉強ができる者なら無条件で入舎させることや、舎生を入舎選考から締め出す可能性が高いことに激しい嫌悪感を持った。舎生千秋二郎は従来の入舎選考を「此制度は実に完全なる自治制の根源なり」とし、「新舎の制度には絶対に容れられず」と書いた。だが移転の阻止も不可能と判断されたため、舎生は舎生総会を開いて「寄宿舎舎生団体」を(京大当局に解散される前に)舎生自ら解散することを決議した。また、新寄宿舎には「高等下宿屋」以外の価値を見いだせないとして、旧寄宿舎と新寄宿舎の絶縁も決議した。舎生は精一杯怒りを堪えていたが、OBの中には「無能無智なる当局者」「クーデター」と直接的に京大当局を非難する者もいた。舎生とOBは1912年2月10日に寄宿舎舎生団体の解散式を行った。式中、出席者らは悔し涙を流していたという。
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