宝塚線時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/26 18:35 UTC 版)
宝塚線に集結した本形式は、先に簡易半鋼製化改造を実施された1形とともに同線の主力車両として2両から3両編成で運行された。当時の宝塚線で3両編成を組んでいたのは本形式だけであったが、51・63形と75・81形では編成の組み方が異なり、歯車比の大きな51・63形は300形や700形といった制御車を組み込んで2M1Tの3両編成となったが、歯車比の小さい75・81形は牽引力が小さいことから、両形式だけのオール電動車編成で3両編成を組んだ。なお、制御車の連結位置は3両編成の運転開始直後とは異なり、運用の効率化を図るために宝塚側に制御車を連結する形に変更された。 付随車の300形は、1935年3月に300・301から87・88に改番された。87は、複巻電動機を搭載した制御電動車として回生制動の試験を行ったことがある(文献によっては87・88の2両とも改造されたとされる)。 1939年には当時在籍の他形式同様灯火管制工事を実施、1940年11月には700形で残る700 - 703の電装改造及び500形(2代目)2次車製造に係る電装品捻出のため、79 - 86が電装解除されて宝塚向き片運転台の制御車に改造されている。75形のうち電動車として残った75 - 78の4両は48kW級電動機搭載車の性能統一を図るため、1941年に320形などとともに歯車比を51・63形と揃える改造を実施、制御器の動作も揃えられたことから、48kW級電動機を搭載した各形式の性能統一が図られることとなった。 1935年以降、320・380・500形といった神戸線の900形及び920系を小型化した車両が宝塚線に相次いで新製投入されたが、1941年の池田折り返し運用の4両編成化及び1944年の同運用の5両編成化に際しては、本形式がその運用を担当して、輸送力増強に貢献した。また、1943年には制御車化された車両が中間に組み込まれることが多くなったことから、運転台機器を撤去して付随車化された。
※この「宝塚線時代」の解説は、「阪急51形電車」の解説の一部です。
「宝塚線時代」を含む「阪急51形電車」の記事については、「阪急51形電車」の概要を参照ください。
- 宝塚線時代のページへのリンク