宜陽の戦い
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武王2年(紀元前309年)、武王は韓の襄王と臨晋の城外で会い、樗里疾を韓の宰相とした。 武王は甘茂に、「兵車を三川(伊水・洛水・黄河のある地)に入れ、そこを通って、西周室をおびやかして天下に号令できるなら、死んでも悔いはない」と言った。 甘茂はそれを聞き、「どうか私を魏にやり、秦と一緒に韓を討つ約束を決めさせて下さい」と言ったので、 武王は甘茂と向寿を魏へつかわせた。その後向寿が先に帰国し、「魏は私の言葉を聴き入れました。王は韓を討ちませぬように」と甘茂の伝言を伝えた。 武王は甘茂の魏から帰国を待ちきれず、魏にほど近い息壌の地まで出迎えた。甘茂は帰国しその息壌で武王に会った。武王はさっそく事情をたずねた。 甘茂は、「韓の重要拠点である宜陽は大邑です。落とすのは容易ではありません。いま私は外に出ております。戦の途中で、 ご一族の樗里疾や公孫衍(客卿の大臣、犀首とも)などが韓に好意を寄せると、王はきっと魏をあざむくでしょう。かつて曾子の母に、ある男が『曾参が人を殺したぞ』と知らせました。曾子の母は最初は信じませんでした。しかしそれから2人も同じように言ってきたので、曾子の母は信じて逃げ去ってしまいました。曾子ほどの賢明さと、母の厚い信頼があっても、信じられなくなります。臣の賢明さは曾子に及びませんし、王の臣に対する信頼も曾子の母ほどではないでしょう。しかも臣を疑う者は3人だけではありません。臣は王が私を見捨てられる事が心配なのです」と言い、王の覚悟を確認した。 武王はそこで「私は樗里子や公孫衍などの言葉を聞き入れまい。誓おう」と答え、甘茂と息壌で堅く盟いを結んだ。 武王3年(紀元前308年)秋、武王は甘茂と庶長封に宜陽を討たせた。しかし、それから5カ月経ち、翌武王4年(紀元前307年)になっても甘茂は宜陽を攻略できなかった。やはり樗里疾と公孫衍が甘茂を非難し更迭を図ろうとした。武王は我慢しきれず甘茂を召し戻そうとした。 甘茂はそれを聞き、「息壌はそこにあります」と言った。 武王は、「そうであった」と言い、全軍を動員して再度甘茂に宜陽を攻撃させた。 遂に甘茂は宜陽を抜き、首級6万を斬る成果を挙げ、黄河を渡って武遂に城を築くまでに至った(宜陽の戦い(中国語版))。この宜陽の戦いは大激戦であったため、韓だけでなく、陥落させた秦も大きく疲弊する結果になってしまった。
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