宜陽の戦いとは? わかりやすく解説

宜陽の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:21 UTC 版)

武王 (秦)」の記事における「宜陽の戦い」の解説

武王2年紀元前309年)、武王は韓の襄王臨晋城外会い樗里疾を韓の宰相とした。 武王甘茂に、「兵車三川(伊洛水黄河のある地)に入れ、そこを通って西周室をおびやかして天下号令できるなら、死んで悔いはない」と言った甘茂はそれを聞き、「どうか私を魏にやり、秦と一緒に韓を討つ約束決めさせて下さいと言ったので、 武王甘茂向寿を魏へつかわせた。その後向寿先に帰国し、「魏は私の言葉聴き入れました。王は韓を討ちませぬように」と甘茂伝言伝えた武王甘茂の魏から帰国待ちきれず、魏にほど近い息壌の地まで出迎えた甘茂帰国しその息壌武王会った武王はさっそく事情たずねた甘茂は、「韓の重要拠点である宜陽大邑です。落とすのは容易ではありません。いま私は外に出ております。戦の途中で、 ご一族樗里疾公孫衍客卿大臣、犀首とも)などが韓に好意寄せると、王はきっと魏をあざむくでしょう。かつて曾子の母に、ある男が『曾参が人を殺したぞ』と知らせました曾子の母は最初信じませんでした。しかしそれから2人同じよう言ってきたので、曾子の母は信じて逃げ去ってしまいました曾子ほどの賢明さと、母の厚い信頼があっても、信じられなくなります。臣の賢明さ曾子に及びませんし、王の臣に対す信頼曾子の母ほどではないでしょう。しかも臣を疑う者は3人だけではありません。臣は王が私を見捨てられる事が心配なのです」と言い、王の覚悟確認した武王はそこで「私は樗里子公孫衍などの言葉聞き入れまい。誓おう」と答え甘茂と息壌で堅く盟いを結んだ武王3年紀元前308年)秋、武王甘茂と庶長封に宜陽を討たせた。しかし、それから5カ月経ち、翌武王4年紀元前307年になって甘茂宜陽攻略できなかった。やはり樗里疾公孫衍甘茂非難し更迭図ろうとした。武王我慢しきれず甘茂召し戻そうとした。 甘茂はそれを聞き、「息壌はそこにありますと言った武王は、「そうであったと言い全軍動員して再度甘茂宜陽攻撃させた。 遂に甘茂宜陽抜き首級6斬る成果挙げ黄河渡って武遂に城を築くまでに至った(宜陽の戦い(中国語版))。この宜陽の戦いは大激戦であったため、韓だけでなく、陥落させた秦も大きく疲弊する結果になってしまった。

※この「宜陽の戦い」の解説は、「武王 (秦)」の解説の一部です。
「宜陽の戦い」を含む「武王 (秦)」の記事については、「武王 (秦)」の概要を参照ください。

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