定山渓での旅館経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 09:24 UTC 版)
1930年(昭和5年)、精肉店での蓄えを元手に「料亭 福住」(現在は定山渓グランドホテル)を開業した。 当時の定山渓は、1918年(大正7年)に定山渓鉄道線が開通したことで行楽地としての魅力が高まり、急速に温泉街が形成されつつあった。1923年(大正13年)には小樽新聞が企画した「北海道三景」に「利尻富士」・「洞爺湖」とともに選ばれて知名度が高まり、1929年(昭和4年)の定山渓鉄道の電化によって定山渓を訪れる観光客は飛躍的に増加していた。また、この頃から自動車道路の整備も進み、1932年(昭和7年)には札幌駅-定山渓のバス運行も開始された。さらに1938年(昭和13年)頃には木材の伐り出しも盛んになってますます活気づくこととなる。 こうした状況の中、増次郎は「福住」を軸に事業を拡大。定山渓の6つの大手旅館の一つ「定山園」を共同経営したほか1軒の旅館を経営し、さらに「定山渓養狐場」、満州東安省虎林に福住の支店を設けていった。 しかし第2次世界大戦戦争が激しくなると、多くの他の料亭と同じく「福住」も「富久井」と改称して旅館専業となった。1943年(昭和18年)には海軍に接収されて海軍軍属の保養寮となり、終戦を迎えた時には建物も傷み、昔の面影がなくなるほど荒廃してしまったという。
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