学院の移転と現状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 20:47 UTC 版)
当初はゲレールテンシューレ(学者学校、古典語学校)として学者を養成し、啓蒙主義時代の識者を輩出していたが、後には「Bürgerschule(ビュルガーシューレ、市民学校)」となり、商人たちの子息を教えるようになった。 ハンブルク市では19世紀前半になると、老朽化した学院の校舎と聖ヨハネス教会の再築の計画がもちあがった。資金集めには10年以上を要し、最終的に1838年から新校舎の建築が始まった。新しい学院は、シュペアゾルト(Speersort)地区の大聖堂跡地に立てられることになった。なお、元の校舎があった場所は、今は市庁舎前の広場になっている。1840年に完成した新校舎は、左右両翼の棟の中央にアーケードがあり、その中央の南面に正門が設けられている。完成の2年後の1842年にはハンブルク大火があったが、新校舎はこれを耐え抜いて無事だった。 1914年に、学院は新たにマリア・ルイーザ通り(Maria-Louisen-Straße)114番に移転することになった。これが現在のヨハネウム学院の校舎である。校舎はフリッツ・シューマッハーの設計によるもので、ハンブルク市の文化遺産(1979年指定)となっている。敷地内のブーゲンハーゲンの銅像は彫刻家のエンゲルバート・ファイファー(Engelbert Peiffer)が1888年に製作したもので、こちらも文化遺産(1958年指定)である。 2007年5月24日に、学院に新しい体育館が建築された。体育館のほか、劇場や音楽室、美術室、喫茶室なども兼ね備えた3階建ての会館である。建設費はほとんど寄付で賄われたが、総工費550万ユーロのうち、学院の卒業生である匿名の篤志家が1人で100万ユーロを寄付したと伝えられている。 なお、1840年築の旧校舎はハンブルク大学の図書館(Staats- und Universitätsbibliothek Hamburg)として利用されていたが、1943年のハンブルク空襲で破壊された。僅かに残っていた部分も戦後の道路拡張によって撤去された。
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