学会の実験科学の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:04 UTC 版)
王立学会は設立時には実験科学を重視した学会だった。実験科学の理念はフランシス・ベーコンやガリレオ・ガリレイによって提唱されたが、それが本格的に定着したのは1660年のイギリス王政復古後の王立学会であった。17世紀のフックの王立学会での活躍はガリレオ以来の実験科学の研究の伝統を受け継ぐものだった。しかし18世紀にニュートンが台頭すると学会では実用的な実験よりも理論的な科学の勢力が増した。学会が活動拠点としたグレシャム・カレッジはもともとトーマス・グレシャム(1519-1579)が、自身の死後に屋敷に「社会人教育のためのカレッジ」として創設されたもので、大衆のための教育施設だった。その講義では幾何学や天文学や実用的学問が重視された。フックが教授となったときもその伝統を受け継いでいた。グレシャム・カレッジと共にフックが活躍した時期の王立学会もイギリスの数学的諸科学の本拠地として機能した。しかし、17世紀後半から王立協会のフィロソフィカル・トランザクションズに掲載される論文では天文学など数学的諸科学の論文が減少し、技術分野への関心の低下が起こった。ニュートンの登場と台頭は理論的な科学への関心の高まりを反映することになり、1710年に老朽化したグレシャム・カレッジを離れて、クレーン・コートに独自の建物をもって移転し、フックの実験科学の伝統から離れていった。フックの時代の会員数は150人前後で推移していたが、ニュートンが会長になった1700年頃には会員数は100人程度だった。学会はニュートン会長の下で1700年代に急速に会員を増やし1840年には700人を超えた。
※この「学会の実験科学の衰退」の解説は、「王立学会」の解説の一部です。
「学会の実験科学の衰退」を含む「王立学会」の記事については、「王立学会」の概要を参照ください。
- 学会の実験科学の衰退のページへのリンク