姜無詭の優勢と混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 04:37 UTC 版)
「桓公の後継者争い」の記事における「姜無詭の優勢と混乱」の解説
桓公は、紀元前643年に亡くなった。『管子』や戦国時代のいくつかの史書によれば、共謀する4人の役人によって餓死したと記載されている。然し、これらの事件に関するその他の有力な情報源、たとえば『春秋左氏伝』や『史記』の記録などは、これについて言及していない。桓公が死んだため、宮廷での後継争いはエスカレートした。後継者である姜昭と、公位継承権の主張者の姜無詭・姜潘・姜商人・姜元・姜雍の派閥は、互いに武装し、首都臨淄(中国語版、英語版)は武力的な混乱に陥いった。しかし、姜無詭は宮廷に置いて、易牙と豎刁という2人の強力な支持者を有していた。『管子』は、この2人が桓公を殺害した共謀者の一人であると主張している。易牙と豎刁が率いる姜無詭の派閥がなんとか宮殿を支配し、捕らえることができるすべての公位継承者を殺害した。他の公位継承者たちは自らの命のために逃亡した。紀元前643年11月11日、姜無詭は斉の新しい公爵として即位した(斉侯無詭)。その後、ついに桓公の墓葬が行われた。さまざまな説明によると、桓公の死体は、後継者争いのために7日から3カ月の間、寝室に無人で安置されていて、すでに腐敗し始めていた。 しかし、姜無詭の即位にもかかわらず、統治は盤石と言うにはほど遠いことが証明された。姜潘・姜商人・姜元・姜雍の支持者の勢力も大規模なままであったが、最大の脅威を与えたのは宋の襄公の元に亡命して援助を求めた姜昭であった。宋の襄公は宋を中心として、曹・衛・邾と同盟を組んだ。襄公と姜昭が率いるこれらの諸侯の同盟軍は、紀元前642年3月に斉を侵攻し始めた。防衛側の斉侯無詭は、侵略者から斉侯無詭を助けるために遠征軍を派遣した魯の支持を得た。しかし結局、戦場での勝敗が決定される前に、斉侯無詭は殺害された。宋を中心とする侵略を斉の人々は恐れ、斉侯無詭に対して反乱を起こし殺害させ、姜昭を新しい公爵として迎え入れた。
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