太田辰五郎と牛市場 、竹の谷蔓全国へ
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「竹の谷蔓」の記事における「太田辰五郎と牛市場 、竹の谷蔓全国へ」の解説
太田辰五郎(1790~1854)は千屋の実村(さねむら)で代々鉄山業を経営する一家に生まれた。難波元助と並ぶ、地方有数の巨財をなした豪農である。 辰五郎は機略に富み、義侠心に強い者であったとされる。天保の大飢饉に際しては、困窮した貧民に貯蔵米を配布し、周辺各村には救済事業資金を融通するなど、地方事業の功労者として郷党からの信望を集めた。 商用で江戸や大阪を旅することもあり、世間の情勢に明るく、また商機に敏感でもあったとされる。近畿地方の牛の需要が多かったことを洞察し、砂鉄に代わる産業として、牛生産事業に着手した。 当時千屋は産牛が少なく資質も劣っていた。そのため先ずは良牛を遠方から買い集めた。大阪天王寺牛市で石橋孫右衛門から買い入れた雄牛は、体高133.3㎝もある黒毛の伹馬系の牛であったが、これを、難波千代平から買い入れた竹の谷蔓雌牛に交配したところ、雄子牛を生産した。この牛は赤毛であったが、成育すると良牛となり、体高139.4㎝にもなった。この牛を繁殖に使用したところ、黒毛の良子牛を生産し、改良に顕著な効果を示した。この系統が大赤蔓であり、現在の千屋牛の祖先とされる。 辰五郎は村民にも牛を飼育することを奨励し、自らの牛を農民に預けるなど繁殖に努めた。順調に生産量も向上したが、その販売を容易にし、さらに畜産業を拡大するために、遂には牛市場を創設した。この千屋の牛市場は大変な盛況で、市場をとおして、千屋の牛は全国に広まっていった。 全国多くのブランド和牛から、微かに竹の谷蔓由来の遺伝子が検出されるのは、以上のような経緯による。 時を経て戦後、岡山県の黒毛和種は、肉用牛としての改良目標に従って雌牛系統に交配する種雄牛の系統が入り乱れて利用されることとなった。また、人工授精の普及により交配圏の拡大が進み、評判の良い種雄牛が集中して使われたことから、岡山県の黒毛和種は系統分離がされることなく混合された集団を形成することになってしまった。 現状、新見市の振興するブランド和牛「千屋牛」は「日本最古の蔓牛」を起源とすることを付加価値としているが、「おかやま和牛肉」(JA晴れの国岡山・JA岡山)も同等の系統として宣伝されるなど、遺伝子上の差別化が本質的には困難であることを露呈している。
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