太田道灌が最初に攻めた城について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 12:14 UTC 版)
「石神井城」の記事における「太田道灌が最初に攻めた城について」の解説
(以前の通説)道灌が最初に攻めた豊島方の城は平塚城 (新説)道灌が最初に攻めた豊島方の城は練馬城 以前の通説は『太田道灌状』の「自江戸打出豊島平右衛門尉要害致矢入近辺令放火」と『鎌倉大草紙』の「江戸より打ち出で、豊島平右衛門尉が平塚の城を取巻外を放火」という記事を合わせたものとなっていたが、現在これを支持している研究者はほとんどいない。主な理由は以下の通りである。 (1)『太田道灌状』では、道灌が最初に攻めた城については「平右衛門尉要害」となっているだけで、これが「平塚城」である、とはどこにも記されていない。 (2)「平右衛門尉の城(要害)」は、道灌が石神井方向から自軍を追ってきた豊島方に対して「馬を返して(引き返して)」江古田原で迎え撃った、との記述が出てくることを考えれば石神井城と同方向にある「練馬城」とすべきである。『道灌状』の「兄勘解由左衛門尉相供石神井・練馬城自両城打出」も、通説のように「兄の勘解由左衛門尉が石神井城・練馬城の両城から兵を率いて攻撃に向かった」のではなく、「石神井城の兄・勘解由左衛門尉が、練馬城の弟・平右衛門尉と共に自城から出撃した」と解釈するのが妥当である。 (3)弟の平右衛門尉は江古田原で戦死しているが、「平塚城から出撃した」との記述がないにも関わらず戦闘に加わっている点をみても、平右衛門尉と従兵は練馬城より出兵したとみるのが自然である。 (4)平塚城近くにある豊島氏ゆかりの寺「清光寺」には同時期「荒廃していた」との寺伝が残されていることからも、豊島一族はその頃すでに拠点の中心を西方に移していた、と考えるべきである。 (5)『道灌状』には翌文明10年(1478年)1月に勘解由左衛門尉が「平塚と申すところに対城こしらえ」と記されており、前年の段階ではまだ平塚城は戦闘用の城郭ではなかった、と考えられる。 (6)道灌が最初に平塚城を攻めているのならば、翌年になって「平塚と申す所」という、あたかも初めて名前を出すかのような表現をするのは不自然である。 (7)道灌が江古田原合戦後、練馬城を無視して石神井城の攻撃に向かったことについても、「練馬城主・平右衛門尉が江古田原で戦死し、豊島方は練馬城の兵も含めて全て石神井城へ逃げ込んだため」と考えれば説明が付く。 (8)時間・距離・方向の点で前半と後半の記述が整合しない。道灌が最初に攻めた城が「平塚城」であれば、石神井城からの救援が到着するまでに道灌は江戸城に戻ってしまっているはずである。道灌が平塚城から「V字型」に進軍するというのも不自然。
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