天竜寺の決戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:46 UTC 版)
読売新聞社の観戦記者である西條耕一によると、当時は関根金次郎が名人位を返上し、木村義雄らによる第1期の名人決定リーグ戦のさなかであった。名人戦は東京日日新聞(現在の毎日新聞社)が主催していたが、小さな新聞社であった読売は名人の権威を逆手に取り、リーグ戦の上位で名人位獲得が有力視されていた木村義雄、花田長太郎の2人の実力者と坂田を対局させることを企画したという。名人位の失墜を恐れる毎日は反発したが、木村が「(もし対局が受け入れられないなら)将棋大成会を脱退し、個人として参加する」ことを宣言して対局は実現した。このことは、木村にそこまで言わせるほど坂田と対戦できるということに魅力があったことを示している。 花田との対局(1937年(昭和12年)3月)は「天龍寺の決戦」と呼ばれ、このときは後手となった坂田が2手目に△1四歩と南禅寺とは反対の端歩を突いている。結果は169手で花田の勝ちとなった。このときの戦型は坂田の力戦中飛車に花田の居飛車であった。 この端歩突きについては手合いの不満やどうせ勝てないとみてのはったり、阪田流の大見得などの説とともに、これをみた花田や木村らは絶対に負けられないと思ったと伝えられる。『イメージと読みの将棋観』では、現在のプロ棋士らの見解として、後手2手目の△1四歩は△9四歩のそれよりもかなり咎めにくいとしている。振り飛車にしても損はせず、相振り飛車にすると△1四歩が生きてくるとし、また▲2六歩の居飛車もやはり後手一手損角換わりにされれば緩手になることはないとみているが、矢倉模様にすると、△1四歩が悪くなる可能性があるとしている。 2手目△1四歩は平成に入ってから公式戦でも2008年までに4局指されており、特に田丸昇が2局指して深浦康市と桐山清澄にそれぞれ勝利している。
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