天竜川の藤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:00 UTC 版)
言い伝えによると、天竜川のほとりに立つ藤島神社の藤とその向かい側にあった洩矢神社(守矢大明神)の藤は天竜川の上に絡み合い、空中に花を咲かせ、大きい橋に見えるほど繁茂した。 寛文年間の頃、諏訪藩主は天竜川の蛍狩り遊覧のため、この藤を伐り払うように命じたが、人々は神の祟りを恐れて伐る者がいなかった。その時、新屋敷の小石嘉右衛門という傲慢な人が山役の料(蔵米三升)二人分を条件に藤を伐採したところ、間もなく気がおかしくなってしまった。京都の吉田家に祈祷してもらい少し収まったが、ある日、祈祷の札を頭にのせて家を飛び出し、「半の木」という山腰で突然倒れて死んだ。神罰が下ったと人々は言い合い、その場所に社を建てて神札を祀り、「鎮目大明神」と名づけたといわれている。藩主がお詫びに城内で新たな社殿を作らせて奉納することにしたが、これがあまりにも大きすぎて大手門を出ることができなかった。やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の本殿であるといわれている。この際に当社を旧社地から現在地へ移転させ、神事免を寄付した。それ以降は当社が諏訪藩主に篤く崇敬され、明治維新期の廃藩置県まで例祭は藩主によって行われた。
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