天ヶ須賀の由来
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「天ヶ須賀 (四日市市)」の記事における「天ヶ須賀の由来」の解説
天ヶ須賀地区の地名の由来は、旧家である武士階級の天野氏であり、天ヶ須賀の由来には以下の2つの説がある。 天野家を地区名天ヶ須賀の由来とする説「天野氏の須賀」で天ヶ須賀村と言われ、江戸時代には「天洲」とも呼ばれた。 「天ケ」の意味は天野の意味で「天野家の人々」のことである。江戸時代は天ヶ須賀村・富洲原町時代は天ヶ須賀地区であったが、四日市市の住所制度では天ヵ須賀に改称された。南北朝時代に河内国天野郷(紀伊国と呼ばれた現在の和歌山県の天野郷とする説もある。大阪府南河内郡)から三河国の中山庄岩戸や常陸国の磐城に住んでいた武士で江戸時代に移住した家柄の天ヶ須賀の人々であり、朝明郡富田六郷の須賀村に住み着いたのは武士階級である天野一族である。神事の天ヶ須賀の石取祭が行われる天ヶ須賀住吉神社の由来は、大阪の住吉大社の分霊で、漁村で海運業が盛んだった天ヶ須賀村の海上の安全を祈願する守護神である。 天女が須賀の地形の村にいて、この土地の村落で天女が舞いをした事を地区名の由来とする説勢陽五鈴遺響の記録には、「天は海人をさし、須賀は砂州に居住する」という意味であるとしている。富田六郷氏神記の記録には、富洲原小学校付近の富田一色甚五兵衛町に天女ヶ池があったことが由来である。同書には、「空海の説教を聞いた17歳から18歳までの美女は、しだいに変貌してたちまち信心を起こし、池の中に飛び込んだ。須賀の村民は池を美女が池から天女が池と命名した。天女池の東方に弁財天を崇めたり祀っている。江戸時代以後に民家あり、天ケ須賀村と命名されたとの記述がある。空海がいた平安時代初期に、天ケ須賀に人家があったとは歴史学的に考えられないが、古代にはこの集落には池があり弁財天が祭られていた。 天ケ須賀の須賀の意味は、洲陸や洲処の事で、伊勢湾の引き潮があった時代に海辺で洲になる処が、古代に自然に陸地になった地域が須賀である。
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