天ヶ須賀の田んぼ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 04:30 UTC 版)
「天ヶ須賀 (四日市市)」の記事における「天ヶ須賀の田んぼ」の解説
天ヶ須賀の田んぼの土地は、明治時代の少し前の幕末までは、約95町歩もあって広大だった。天ヶ須賀村と朝明川沿いの高松村の中間の天ヶ須賀北部の田んぼは水はけが悪く、大雨が降ると池のようになった。日照りが続くと上の田んぼを耕作している高松村の人が、自分の田んぼに水を取り入れて、下の天ヶ須賀の田んぼまで水が入ってこないので、いつも争いが絶えなかった。それで、天ヶ須賀の農家の人々は、嫌気がさして、酒を持っていって高松村の人々に小作をしてもらった。明治時代になって、田んぼを返してもらうよう話し合ったが高松村の小作人が承諾しない。そこで東京の裁判所まで持ち込んだが、天ヶ須賀村が高松村に裁判で負けてしまい、大半の天ヶ須賀の田んぼが返ってこなかった。呼称は、田んぼや水などによる天ヶ須賀村対高松村の農地争いである。
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