大量の死者を出した原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:13 UTC 版)
「津軽藩士殉難事件」の記事における「大量の死者を出した原因」の解説
津軽藩士たちが越冬用に持ち込んだ食料は、米や味噌などの保存食だった。これらはビタミンを欠いていた上、降雪や流氷のため新鮮な魚や海藻の入手も望めなかった。さらに住まいの陣屋は越冬には不都合な日本建築で、しかも生木を用いた急ごしらえの建築ゆえ、構造材の狂いで隙間風に悩まされた。寒さに耐えかね薪を大量に焚くものの、乾燥が不十分な生木のため大量の煙を発して目を蝕む。さらに前浜は早々と流氷に閉ざされたため、藩士たちは「敵国・ロシアと陸続き」という精神的圧迫に始終押しつぶされることになる。 北海道で生きる術を熟知したアイヌにとっても、斜里の地は厳しい寒気ゆえに越冬が憚られる地域だった。地域のアイヌは夏のみ斜里の沿岸で暮らし、冬季は風が穏やかな内陸部で越冬していた。 現地の状況に不慣れな上、日本伝統の習慣に固執した生活が大量死を招いたといえる。 なお、当時はコーヒーが浮腫予防の妙薬とされていた。しかし貴重品であり、幕府が北方警備の武士の元へ配給できるようになったのは事件から約半世紀も後の幕末になってからだった。ただし同年、樺太へ派遣された有力親藩の会津藩兵には幕府よりコーヒーが支給されている(会津藩の北方警備)。
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