大用国師とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 大用国師の意味・解説 

誠拙周樗

(大用国師 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 17:23 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
誠拙周樗
1745年7月28日(延享2年6月29日) -1820年8月6日(文政3年6月28日)
諡号 大用国師
尊称 無用道人
生地 伊予国宇和郡下灘浦(愛媛県宇和島市
没地 京都京都府京都市
宗派 臨済宗円覚寺派
寺院 円覚寺
月船禅慧、東山周朝
著作 『正法眼』『雲門関』『日記』『語録』『詩歌集』『忘路集』『誠拙禅師集』

誠拙周樗(せいせつ しゅうちょ、1745年7月28日延享2年6月29日)-1820年8月6日文政3年6月28日))は、江戸時代中期から後期にかけての臨済宗歌人円覚寺第189世住持[1]伊予国宇和郡下灘浦(現・愛媛県宇和島市、旧北宇和郡津島町下灘)出身。無用道人と号し、諡号大用国師

人物

1745年(延享2年)に伊予に生まれ、7歳の時、宇和島の仏海寺に入り霊印和尚のもとで出家[2]

1764年(明和元年)に当時の武蔵国久良岐郡永田村(現在の神奈川県横浜市南区永田北1丁目)の宝林寺に入り、月船禅慧に師事する。その後1777年(安永六年)に鎌倉の円覚寺(神奈川県鎌倉市山ノ内)仏日庵の東山周朝に師事してその法を継ぎ、1783年天明3年)に円覚寺前堂首座に就任した。荒廃した円覚寺の伽藍や宗派の勢を復興し、現代の円覚寺の基礎を築いたと言われる[1]。晩年は臨済宗重鎮として京都に赴くことが多くなり、相国寺に移っている。

和歌を香川景樹に学び、歌集に『誠拙禅師集』がある。また茶道をよくし、松江藩島根県)藩主松平不昧とも親交があった[1]

文化財

  • 誠拙和尚関係資料:横浜市指定有形文化財(歴史資料)、1991年(平成3年)11月1日指定[3]。玉泉寺(横浜市栄区金井町)所蔵。誠拙は、鎌倉に近い玉泉寺を度々訪れ、休息所として不顧庵・忘路亭を創建した。当寺には誠拙が着用した袈裟や、愛用の茶道具風炉釜など、誠拙に関するまとまった資料が残されている[1]

脚注

  1. ^ a b c d 栄の歴史編集委員会 2013, pp. 48-49.
  2. ^ データベース『えひめの記憶』”. 愛媛県生涯学習センター. 2021年5月23日閲覧。
  3. ^ 横浜市教育委員会 2019, p. 18.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大用国師」の関連用語

大用国師のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大用国師のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの誠拙周樗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS