大文字中止騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:50 UTC 版)
1962年(昭和38年)、送り火に対する京都市の助成金が少なすぎ、また人手も足りず崩れた火床の補修もままならないこと、市が地元民の会談の要請を無視して大文字の麓の韓国学校に建設許可を与えたことへの反発により、8月12日、大文字保存会は送り火の準備作業である山道と火床の整備を停止。8月12日、総会での投票の結果賛成多数で送り火の中止が決定、点火はせずに大師堂での護摩法要だけを行う見込みとなった。また翌13日には地元有志70名が市に韓国学校の建設中止を陳情。 この年は折しも阪急京都本線の延長工事のため、祇園祭の山鉾巡行が中止となっており、京都市は説得を開始。京都市が韓国学校に工事の中止を勧告したほか、今後の協力の見込みが立ったことや、市民からの寄付金が寄せられるなどしたこと、また14日朝から京都市が労働者50人を供出し参道の整備作業を開始し、さらに保存会役員や地元長老が説得に動くなどした結果、14日夜の総会で一転、満場一致で送り火の決行が決定し、送り火は無事に点火された。 1980年(昭和55年)2月、火焔・残り火の消火、および万が一それが類焼におよんだ時などの責任の所在を問題とし、また前年7月よりの申し入れにも拘らず市・消防当局の対応に誠意が見られないことを理由に、大文字五山保存連合会は送り火の中止を決定した。 これまで消防側は「(焚火と同じで)火を点けた者が責任をもって消火するべきである」としており、また万が一の類焼時には地元民に全ての責任を負わせるかたちとなっており、保存会側は過重な負担を強いられていると主張。結局は5月に京都市が残り火に責任を持つとすることで合意し、送り火は継続されることになった。このほか、送り火当日の一般人の立ち入りも制限されることとなった。
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