大川系企業群の形成とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大川系企業群の形成の意味・解説 

大川系企業群の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/15 10:13 UTC 版)

樺太工業」の記事における「大川系企業群の形成」の解説

樺太工業1913年大川平三郎1860年 - 1936年)と、大川経営ないし関与いしていた5つ製紙会社出資によって設立された。 創業者大川平三郎は、第一国立銀行(後の第一銀行)などを設立した実業家渋沢栄一の甥にあたる人物で、渋沢1873年設立した王子製紙16歳入社した後、技術者として活躍し創業期王子製紙支えていた。最終的に専務取締役となっていたが、経営権掌握目指し王子主要株主である三井財閥によって、1898年王子追われた。 王子退職した大川は、ともに王子辞職した技術者職工など40余り引き連れて当時静岡県新工場建設していた四日市製紙移籍した。しかし引き連れてきた技術者職工らと従来からの従業員との折り合い悪く大川自身四日市製紙株主対立したため、1901年上海にあったフランス系製紙会社技術者職工とともに移籍した1903年帰国した後、経営悪化していた熊本県九州製紙旧・東製紙)の経営再建参加し同社社長に就任した続いて中部地方での製紙工場建設乗り出し1906年中央製紙岐阜県)を、1908年木曽興業長野県)を設立した。この3社は大川大株主経営者として所有経営していた。このほかにも1908年四日市製紙役員復帰(のち筆頭株主に、1918年社長に就任)、1909年には中之島製紙大阪府)の会長にも就任した。これらの大川企業5社の洋紙生産高は、1913年時点国内洋紙生産高の約20%占めていた。業界首位王子製紙(約32%)や富士製紙(約29%)に比べる格差があったものの、大川企業群は王子富士両社に次ぐ規模有していた。

※この「大川系企業群の形成」の解説は、「樺太工業」の解説の一部です。
「大川系企業群の形成」を含む「樺太工業」の記事については、「樺太工業」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大川系企業群の形成」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大川系企業群の形成」の関連用語

1
12% |||||

大川系企業群の形成のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大川系企業群の形成のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの樺太工業 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS