大川橋蔵名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/05 14:03 UTC 版)
「尾上菊五郎 (3代目)」の記事における「大川橋蔵名について」の解説
嘉永年間当時、三代目の門弟で二代目尾上多見蔵という役者がいた。多見蔵は音羽屋一門の脇役としてかなり重きをなしていたが生来の傲慢から、師匠の三代目と衝突、ついに破門の憂き目を見た。だが自信家の多見蔵は「芝居は江戸ばかりじゃない」といつしか上方に流れ、坂東太郎(一説には大川八蔵)と名乗り道頓堀の芝居で一旗揚げた。そうした最中にたまたま三代目は大川橋蔵の芸名で八代目市川海老蔵と一座を組み同じ道頓堀の角の芝居に乗り込んだのである。 いよいよ明日は初日と舞台稽古の帰り道、三代目が道頓堀を歩いていると、折からの夕日をあびて「坂東太郎」と幟がはためいているのが目についた。三代目は門弟に「坂東太郎とはどんな役者だ?」と尋ねると、「聞いた話では昔うちの一座にいた多見蔵でして・・」という。「うーん多見蔵か、で評判はどうだ?」と三代目。「へえ、宿の話では、初めは音羽屋一門という触れ込みで少しは人気も出たようですが、相変わらずの傲慢で幕内の人気は悪いそうです」「よし、ひとつ多見蔵の天狗鼻をへし折ってやろう」 坂東太郎とは、関東を縦断する利根川の別名である。多見蔵は破門されて関東に因むこの名前をつけて関西に乗り込んだことが解ったので「利根川をひとまたぎ出来る大きな橋」という意味に大川橋蔵という名はぴったりではないかと、この名を大きく掲げて坂東太郎一座に対抗した。太郎の芸はまだ三代目に及ぶべくもなく、橋蔵すなわち三代目菊五郎の芸に見せられた浪花っ子は太郎一座を振り向きもせず、さんざんの斑入りだった。ここで初めて太郎は日頃の傲慢を恥じ師匠に詫びを入れて破門を許され、めでたく太郎は多見蔵、橋蔵は菊五郎と元の名に返った。
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