大夫史の設置と官務家の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 14:19 UTC 版)
「史 (律令制)」の記事における「大夫史の設置と官務家の成立」の解説
五位の左大史は奈良時代後期から見られるが、平安時代中期の天延3年(975年)頃に大春日良辰が五位に叙せられて以降、大夫史が常置されるようになる。恒常化の要因としては、政務形態の変化により大夫史の重要性が高まったことによると推測される。 前述の通り、大夫史は六位史から有能な者を叙爵後も弁官局に留め置いて任命しており、弁官局から転出した者が大夫史に登用されることはなかった。しかし、寛弘8年(1011年)藤原道長が自己の家司で六位史を経て叙爵後受領に転出していた但波奉親を前例を無視して強引に大夫史に就任させる。これにより、政権担当者が意中の人物を大夫史に就任させやすくなり、寛仁3年(1019年)摂政・藤原頼通が小槻貞行を任じて以降、摂関家の家司を務めていた小槻・惟宗両氏が交替で大夫史を務めるようになった。 その後、康和4年(1102年)『政事要略』を白河院に召し取られるなど、惟宗氏は十分に官文書の蓄積ができない中で、小槻氏はますます存在感を高めていく。康和5年(1103年)には小槻祐俊が堀河天皇の許可を得て養子の盛仲へ大夫史を譲って小槻氏が大夫史を世襲し始め、久安5年(1149年)頃に惟宗孝忠が大夫史を去ると、小槻氏が独占的に大夫史を占めるようになった。小槻氏(壬生家・大宮家)は代々にわたって左大史上首(官務)を務めたため、「官務家」と称され、太政官の記録・文書の伝領保存の任にあたるようになる。 左大史の辞令(口宣案)の例 「長興宿禰記」上卿 中御門中納言文明十八年七月十二日 宣旨從五位上小槻時元宜任左大史藏人頭左中辨藤原元長奉(訓読文)上卿 中御門中納言(中御門宣胤 45歳 従二位権中納言) 文明18年(1486年)7月12日 宣旨 従五位上小槻時元(大宮時元 18歳) 宜しく左大史に任ずべし、蔵人頭左中辨藤原元長(甘露寺元長 31歳 正四位上)奉(うけたまは)る
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