大コロンビアとスクレの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 06:08 UTC 版)
「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の記事における「大コロンビアとスクレの死」の解説
スクレは妻が待つキトに向かい、その地に居を構え、妻の財産に頼って暮らすことにした。政治的には一貫してボリバルに味方したが、ボリバルの独裁化を好まず、自身の政治関与にも消極的だった。ボリバルはスクレを自身の後継者に指名しようと考えていたが、スクレはこの任を拒んだ。 しかし1828年にペルーがエクアドルの領有をねらって軍を集結させたため、再びコロンビア陸軍の指揮をとった。総司令官のラマルをはじめとするペルー軍の指揮官の多くは、独立戦争でスクレの部下として戦った者たちであった。倍近い兵力で侵攻したペルー軍は、1829年2月27日のタルキの戦い(英語版)でスクレに敗れて壊滅した。 7月10日に娘のテレサが生まれた。スクレは故郷のクマナで国会議員に選ばれたため、妻子を残して11月に首都ボゴタに向けて発った。1830年1月20日に発足した議会で、スクレは国会議長になった。このとき既にベネズエラはホセ・アントニオ・パエス(英語版)の下で分離の動きを明らかにしていた。スクレはパエスを説得するためカラカスに向かったが、パエスは会談を拒んでスクレを国境の町ククタで足止めした。スクレはあきらめてボゴタに戻り、ボリバル後の新大統領就任を見届けてから帰郷の旅についた。 その旅の途中、1830年6月4日に、スクレの一行は森の中で待ち伏せた複数の暗殺者に狙撃された。スクレは頭に弾を受けて即死した。 犯人は不明だったが、現場付近を管轄としていた軍人政治家のホセ・マリア・オバンド(英語版)が関与を疑われた。オバンドはペルーに逃亡したがすぐに復帰し、1831年から1832年と1853年から1854年の2度にわたってヌエバグラナダの大統領を務めた。オバンドは、自分は無実で、当時エクアドルの分離を画策していたフアン・ホセ・フローレス(英語版)(エクアドルの初代大統領)が真犯人だと主張した。1842年に下手人が判明し、アポリナル・モリリョらが逮捕され、処刑された。モリリョはオバンドの指示によると供述したが、裁判所はその証言を採用しなかった。 スクレの名前はボリビアの首都スクレとなり、生地クマナのある地域もスクレ州になった。またエクアドルの旧通貨の単位もスクレであった。1994年から1998年まで発行されていたベネズエラの旧2000ボリバル紙幣に肖像が使用されていた。 2017年10月9日にボリバル宇宙活動庁は小型地球観測衛星アントニオ・ホセ・デ・スクレ(英語版)(VRSS-2)をベネズエラは中華人民共和国の協力で打ち上げている。
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