外部からの進言により着手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
「箱根登山鉄道」の記事における「外部からの進言により着手」の解説
電車の盛況を見た温泉村からは、1900年5月23日付けで「路線を当村まで延長して欲しい」との要請があった。この当時、既に箱根遊覧鉄道から湯本と気賀を結ぶ鉄道路線の免許が存在したため、まず小田原電気鉄道では湯本と宮城野を結ぶ路線延長を出願した。同年9月8日付の『横浜貿易新報』において「箱根遊覧鉄道は解散した上で、小田原電気鉄道が創立費用を負担することにまとまった」と報じられているが、この延長計画は同年9月17日の臨時株主総会で否決されてしまった。 1907年、スイスにおける登山鉄道の実況を視察した者から「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけで、再び登山電車の建設計画が具体化した。実業家の益田孝や井上馨などが資本家階級の社交クラブ「交詢社」において、日本の発展策の一案として「海外からの観光客を誘致するために箱根山に登山鉄道を延長する」という内容で話し合い、この事業を小田原電気鉄道に勧告した。これを受けて、1910年1月の臨時株主総会において、湯本から強羅へ路線を延長すること、そのために資本金を220万円に増額することを決定した。 同年4月には路線延長を総理大臣・内務大臣に出願し、さらに翌月には強羅から仙石原を経て、東海道本線(当時)の佐野駅(当時)への延伸計画を追加した。この当時、小田原電気鉄道のほかには駿豆電気鉄道など4社が箱根に登山電車を走らせる計画を出願しており、競願となっていた。しかし、小田原電気鉄道は益田や井上などの後援がある上、益田の義兄弟の山縣有朋が長州藩出身で、当時神奈川県知事の周布公平も長州藩出身であった。しかも、出願されていた路線はいずれも小田原電気鉄道の延長という形態であった。結局、1911年3月1日に小田原電気鉄道に登山鉄道建設の免許が交付されることになった。 1912年には下強羅と上強羅を結ぶ鋼索鉄道(ケーブルカー)の敷設免許を申請し、同年中に免許が下りている。また、1913年2月22日には、山王松原(2012年時点での小田原市山王)と松田を結ぶ鉄道の敷設を申請しているが、許可には至っていない。
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