塔の建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 15:43 UTC 版)
1940年の神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝事業として宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになった。 そして宮崎県当局も「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」を立ち上げ、県を挙げて奉祝することになった。当時の知事相川勝六(奉祝会会長も兼任)は、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る事を提案し、実行に移すことになった。 相川知事は大阪毎日新聞・東京日日新聞(いずれも毎日新聞の前身)に頼み、この塔を設計する彫刻家を公募した。そして名乗りを上げたのが日名子実三である。日名子は「報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい」と申し出て、相川知事も日名子の熱心さと彫刻家としての名声から、この申し出を了承することになった。相川知事は条件として、「何ヶ月間か宮崎県内を巡り、その風物に触れて構想を練ってほしい」と注文を出し、日名子もこれを受け入れた。そして宮崎神宮に参拝した際に、日名子は御幣を見てインスピレーションを感じ取って、これに盾を組み合わせたデザインにしたという。 場所について、相川知事は当初神武天皇縁の地である「皇宮屋(こぐや)」を考えていたが、県の幹部より皇宮屋の北部の台地を勧められ、実際に現地を訪れた結果、この地に建造することになった。 1939年(昭和14年)3月、日名子は模型を完成させ、相川知事の了解を得た。5月20日から工事開始。県内から動員された学徒を中心とする、延べ約6万人の労働により翌1940年(昭和15年)11月25日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われた。
※この「塔の建造」の解説は、「八紘之基柱」の解説の一部です。
「塔の建造」を含む「八紘之基柱」の記事については、「八紘之基柱」の概要を参照ください。
- 塔の建造のページへのリンク