基房・師家・隆忠の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:07 UTC 版)
初代である松殿基房が高倉天皇の関白だった1179年、後白河法皇と平清盛の対立が頂点に達し、ついに清盛が法皇の幽閉と高官達の追放を断行、それに巻き込まれた基房も大宰権帥へと左遷となり、失意の内に36歳で出家した。また基房は生母の父が太政大臣であるからという理由で、長男の藤原隆忠や次男の家房ではなく、わずか8歳の三男・松殿師家を後継者にした。 その後、木曾義仲が都に入ると基房は娘伊子を義仲の側室に差し出す。その甲斐があって1183年師家は義仲の支持を背景にわずか12歳で摂政・内大臣・藤氏長者に就任するが、数か月後には義仲が源義経に討たれ、師家は解任された。その後、半世紀近くも師家は官職に就くことができずに失意の日々を過ごした(ちなみに師家は甥にあたる道元を養子に迎えようとして失敗している)。この間に隆忠は弟である師家を官職の上で追い抜き、1211年まで左大臣を務めている。
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