基地の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:40 UTC 版)
1908年1月29日にマクマード・サウンドに到着すると、ディスカバリーのハットポイント基地までは凍った海に阻まれて南に進めなかった。シャクルトンは氷が割れるのを期待して数日間待つことにした。こうした遅れの間に、二等航海士のイニーアス・マッキントッシュが事故で右目を失うことになった。マーシャルとマッケイが緊急手術を行った後、陸上部隊を諦め、ニムロドでニュージーランドまで送り返されるしかなくなった。マッキントッシュは次の探検シーズンに船と共に戻ってこられるだけ快復した。 2月3日、シャクルトンは氷が変わるのを待たないことにし、その作戦本部を最も近く上陸が可能な場所ケープ・ロイズに造ることにした。その夜、船は停泊し、遠征隊のプレハブ小屋を建てるために適した場所が選定された。その場所はハットポイントとの間に海で20海里 (37 km; 23 マイル) 隔てており、南に行く陸のルートは無かった。シャクルトンは「南に進む出発点にかなり近い場所で冬季宿営できる幸運」を思った。しかし、個人的には翌春に旅を始める時に氷を渡れるだけ海が凍ってくれるかが心配だった。 翌日は機材や物資を陸揚げするために費やされた。この作業は悪天候に悩まされ、またイングランド船長が上陸点の氷の状態は彼の見解で安全であるかを見極めるために、湾内で船を何度も動かしたので遅れた。その後の2週間はこれの繰り返しであり、シャクルトンと船長の間に鋭い意見の食い違いが生まれた。ある時点でシャクルトンがイングランドに、病気であることを根拠に休養を求めたが、イングランドが拒否した。荷卸しの仕事は、リッフェンバーグの表現では、「心をマヒさせるような困難さ」だったが、2月22日にやっと完了した。ここでニムロドが北に戻ることになった。イングランドは、機関士のハリー・ダンロップがシャクルトンからニュージーランドの遠征隊代理人に宛てた手紙を託されていることを知らなかった。それには翌年戻ってくるときに船長を交代させることを依頼してあった。この件は陸上部隊の間では公然の秘密であり、マーシャルはその日誌に「(イングランドを)見るのが最後で嬉しい。・・・全てが国の名前に不名誉を与えている!」と記していた。
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