城主五代とは? わかりやすく解説

城主五代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 16:56 UTC 版)

置塩城」の記事における「城主五代」の解説

置塩城は、築城してから城割破城)までの約100年間に、赤松氏五代わたって城主変わった一代目 赤松政則 政則の播磨国入国には管領細川勝元力添えがあり、当初国衆にも歓迎されたので、播磨国備前国美作国三国守護返り咲くことができた。しかし、当時国衆全国的に力が強く三国を完全に統一することはできなかったようである。政則は明応5年1496年4月25日42歳逝去した。 二代目 赤松義村 政則に子はあったが、政則自身赤松氏でも傍流出身だったので有力一門七条家から迎えた養子赤松義村二代目城主となった。義後見には守護代として浦上村宗就いた。しかし、宗は守護代地位利用して実権握り、それに反発した戦いの末屈服させ、大永元年1521年)には幽閉し暗殺した三代目 赤松晴政浦上村宗派は、義の子赤松晴政密かに三代目城主据えたその後宗は細川家内紛加担し細川高国方について各地転戦する。晴政は大物崩れ宗を背後から襲い、ついに倒した。しかし、その後の子浦上政宗服従させることはできなかった。天文7年1538年11月には出雲尼子晴久大軍率いて播磨侵攻し、晴政も摂津国逃亡する。晴久は2年後播磨国から撤退し、晴政は帰国したその後政宗との対立続いた晩年にはその子・義祐を擁立した政宗のため置塩から退去し龍野城赤松政秀庇護受けた永禄8年1565年)に死去する四代目 赤松義祐 この頃になると備前国では宇喜多氏美作国では浦上氏勢力拡大しており、所領はわずか飾東、飾西、神東の三郡だけとなっていた。その義祐も天正4年1576年)に死去する五代目 赤松則房 最後城主赤松則房である。羽柴秀吉中国攻めに対して、則房を含めた播磨国国衆達はほとんど戦うことなく降伏し軍門下った播磨国統一した秀吉権力基盤整えるために「城割」を実施し筆頭に「置塩城」をあげて廃城にした。秀吉の命によって則房は天正13年1585年)に阿波国住吉城1万石で移封する。

※この「城主五代」の解説は、「置塩城」の解説の一部です。
「城主五代」を含む「置塩城」の記事については、「置塩城」の概要を参照ください。

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